28
知らないうちにジゼルは白い光の中にも関わらず目を開いていたのだろう。
白い世界に一つ違う色が現れはじめた。人の影のみならず壁と地面の境目すらも消し飛ばしてしまっていた白い光が徐々に収まっていくのが目に見えた。
様々なものが輪郭が取り戻し壁が現れ石とは思えぬ地面が現れ、ジゼルの視界の中心には――クラウスと思われる人影が立っている。
紛れもない紺碧色にジゼルは微かな息を洩らした。倒れず立っている後ろ姿に目の奥が熱くなり、クラウス、と音なく名前を呟いた。
クラウスだ。髪は切られたときと変わらず服装も変化はない。形が変わったということもない。
しかしその姿は淡く光を纏い神のような神々しさを帯びていた。
ジゼルの脚から力が抜けてその場に落ちる形で座り込む。少しも抵抗がなかったということは、神官も同じようになっているかもしれない。確認はできなかった。目が、前方に引き寄せられている。
立ち上がり走ると何秒かでたどり着いてしまう距離。声をかけると間違いなく届く距離。
けれどジゼルだけでなくその場にいる者たち全員がそうできない。動くことも声を出すことも許されない。全てが止まる。
神のような、なのではない。今クラウスの中には実際に神がいるのだ。
どのような神が彼の中に降りたかは分からない。身体には人にあらざる力が宿りジゼルの身にぴりつく感覚を与えてくる。ただの人間など姿だけで圧倒される。
人間ではない存在がすぐ近くにいる証。
クラウスの身にはそれ以外にも天上の神々の祝福が煌めいている。
地下で風が入り込んでくる隙間はこの空間自体にはないけれど、確かに前方から生まれ吹きつける風がある。ジゼルが身につける衣が風にあおられてはためていているはずが耳を塞がれたように騒がしい音は聞こえない。
風が生まれる前方にいるクラウスの服も揺れているのに音が聞こえない。
クラウスの手がおもむろに動いた。腕がゆったりと持ち上げられる。血にまみれた腕が、先まで同じ色に染まる指先が美しく映った。その手をひらめかせると強い、それでいて目に衝撃を与えない金色の光が生まれ細長く形を変えてゆく。
瞬く間に形作られたのは神々しい剣。
国宝にある大きな宝石があしらわれている贅の限りを尽くした剣など霞んでしまう、神が手にするに相応しい輝き。悪しきものを滅するに相応しい光と清らかさ、そして力がある。
形を定めた刹那より肌を刺す感じを与えるそれは荒々しさがちらつくも、乱れ堕ち人間を傷つけようとする神ならざる神のそれではない。護るためにときに必要な力を持つ神が彼に応じたのかもしれない。
神の剣を手にしたクラウスの身体が前に一歩二歩、円を出て前へ進み続ける。
「……痛……っ」
突如ジゼルは強烈な痛みに襲われて、奪われていたようになっていた声を出した。それほどの痛みで、動きを止めていた両腕で身体を抱え込む。
痛い。全身が痛い。
違う。模様がある場所全てが痛い。
前に広がることをただ見ていた状態から一転、ジゼルは顔を苦痛に歪ませる。
クラウスが神を宿しその力を手に向かっているのは堕ちた神が封じてある最奥。
近づく危機を察して堕ちた神が力を有らん限り振り絞り封じを破ろうとしている。再び人間の身体に現れ近づく天上の神を威嚇しているのかもしれない、どのみちその力が、堕ちた神と繋がりのあるジゼルに影響を及ぼしている。ジゼルを侵そうとする。
「――――!」
意識が飛びそうなくらい、痛みではなく得たいの知れない気持ち悪さが襲ってくる。これまで死に誘われる直前でもなかった異変。
目の前がちかちかする。前屈みになり、身体を抱いた腕に力を込めて耐えようとする。
引きずられてはならない。
封じを緩めてなるものか。
今封じを緩めれば堕ちた神に隙を突かれるかもしれない。どのような影響をクラウスに与えてしまうか分からない。彼をかの神に絡めとらせてたまるものか。
ジゼルは必死で戦う。たった今も堕ちた神の封じを補い続けているのはジゼルだ。
渾身の力を渦巻かせる堕ちた神に引きずられ万が一封じが解けるようなことがあれば、災厄を振り撒く神が今一度この世に舞い降りる。
そのとき立ち向かうのはジゼルではなく、クラウスになる。それはあってはならない。
自分で掴む腕が痛いのか身体の方が痛いのか。視界に黒がちらついた気がして違和感を覚えた。白が圧倒的で、黒に近いそれよりもっと禍々しい存在は下にいるから。
地面が揺れた。
耐えようとの気概でいつからか顔は下に向けてはいたが明確に認識していなかった視界を見ると、元々ろくにできていなかった息が詰まった。
水面のようで透明な石の地面、その中を闇が手を伸ばしてきていた。
ジゼルはぞっとした。
まさか封じが。
堕ちた神は。
クラウスは。
ジゼルは伏せていたくなる顔を懸命に上げ閉じたくなる目を凝らした。
その先に見えた。
最後の瞬間。
恐れる様子なく闇が洩れる最奥に立つ姿が、悪しきものを滅する力に満ちた剣を地に突き立てた。
一息吐く時間を挟まなかった。神が地上に降りたときを凌駕しそうな光が剣より発され、刃から地面に移った。
瞬間、ジゼルの耳に聞いたことのない恐ろしい音が遠くからのようにけれどはっきりと届く。外からではなく直接届いている。
ただの音ではなく苦痛の声に思えた。まさか神の悲鳴なのだろうか。
顔を違った意味でしかめたジゼルは地を侵食しかけていた色が抜けるように消えていく様に気がつき目で追うと、どんどん引いてゆき最後に行き着いたのはまばゆい光の中心。染みのように見える残りが光とは正反対で、その上でその中心にあるのはあれが神の祝福とは異なる正反対の力の塊だからだ、とジゼルは分かった。
ずっと神々の祝福に助けられている一方で身にあり続けていたものだったから、分かる。
それがあっけないくらいに圧倒的に押し潰され、
――消えた
目で見たときと同じくして、微かになっていた声も痛みも何もかもが同時になくなり、身体から魂が抜けてしまったと本気で思ってしまうほど、ジゼルの身体が楽になった。
さっきまでとの落差に精神は追いつかず、何が起きたのか分かっているのに現実として理解できない。
その前に自分で自分の身体を抱える腕が弛緩し未だに神秘的な光が満ちる世界に立つ背中が、薄れる。
揺れる。
光も薄れていく気がして、目を閉じては駄目だと思うも抵抗に力が足りない。
せめて手を伸ばしたくて、伸ばせただろうか。名前を呼べただろうか。
ジゼルは解放され、意識が千切れたようにぷつんと閉じた。




