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第99話:思い出の場所

 一人、森の中を巡る。

 足元の落ち葉が、カサリと乾いた音を立てた。


 見覚えのある、ねじくれた樫の木。子供の頃、よくこの上で昼寝をしては、木漏れ日の中で人間の夢を見た。

 何もかもが、懐かしい。


 湿った土の匂い、風に擦れる葉の音、木々の囁き。森の全てが、俺の記憶を呼び覚ましていく。

 やがて、見覚えのある蔦のカーテンが、目の前に現れた。 


 俺だけの秘密基地。最初の書斎であり、最初の城。

 そっと、蔦をかき分ける。

 踏み入れた洞窟の中は、数年の時が経ったとは信じられないほど、あの頃のままだった。


 床は、俺が毎日欠かさず掃除していた時のように、綺麗に掃き清められている。埃っぽさがない。

 誰かが――おそらく、たった一人の「誰か」が、ずっとここを守ってくれていたのだ。


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような温かさに包まれる。

 奥に進むと、平らな岩を机に見立てた、俺の勉強場所があった。


 そこは、かつて俺の全てだった一冊の本――『初等魔導緒論』が置かれていた場所だ。

 今、その本はエリアス先生の塔にある。


 代わりに、机の上には、一枚の乾いた木の皮が残されていた。

 俺が、文字を書く練習をした跡だ。


 俺は、その木の皮を手に取った。

 そこには、震えるような拙い文字で、誇らしげにこう刻まれている。


『ヒューマン太郎』

 俺は、岩の机に手をつき、顔を覆った。


 目を閉じれば、ありありと思い出せる。

 ここで、俺はこの名前を名乗っていた。


 ゴミ捨て場から拾った本だけが、世界の全てだった。人間とは、絵本の中の騎士や魔法使いのように、完璧で、気高い存在なのだと信じて疑わなかった。


 その、あまりにも稚拙で、完璧な名前を思いついた時、俺は本気で自分を天才だと思っていたのだ。


『……なんと、ちっぽけで、幸せな世界だったことか』

 あの頃の、無知で、未熟で、必死だった自分。


 その姿が、目の前にいるかのように浮かび上がり、俺は思わず苦笑した。

 顔から火が出るほど恥ずかしい記憶。


 だが、そのちっぽけな世界と勘違いがあったからこそ、今の俺がいる。

 あの時の純粋な憧れが、俺をこの長い旅へと突き動かした原動力だったのだから。


 俺は、木の皮をそっと元の場所に戻し、洞窟を後にした。

 次に向かう場所は、決まっていた。


 俺が「ヒューマン太郎」であることをやめ、「ゴブスケ」になった場所。

 旅の、本当の原点。


 記憶を頼りに、森の奥深くへと歩みを進める。

 やがて、さらさらと流れる小さな沢の音が聞こえてきた。


 あった。

 アンナと初めて出会った、あの小さな崖の下。

 数年の時が経ち、崖には新しい苔が生え、周りの木々は少しだけ背を伸ばしていた。


 だが、あの日の光景は、昨日のことのように鮮やかに蘇る。

 ここで、彼女は足を滑らせ、動けなくなっていた。

 

 茂みに隠れた俺は、ゴブリンとしての「人間への恐怖」と、抑えきれない「憧れ」との間で、激しく葛藤した。


 助けたい。でも、怖い。殺されるかもしれない。

 あの時の、心臓が早鐘を打ち、息が止まりそうになるほどの緊張を、今でも肌で覚えている。


 そして、俺は飛び出した。

 覚えたてのつたない治癒魔法で、彼女を助けた。

 俺の手から放たれた、初めての、本物の光。


「あなたの、名前は?」

 彼女の、鈴のような問いかける声が、耳の奥で響いた。 


 俺は、得意満面で、あの完璧な名前を名乗ったのだ。「ヒューマン太郎だ」と。

 そして、彼女は、きょとんとした後、屈託なく笑ったのだ。


『呼びにくいから、『ゴブスケ』はどうかな?』

 ゴブスケ、と。

 彼女が、俺を呼んだ。


 生まれて初めて、誰かが俺のためだけに与えてくれた、温かい繋がり。


 自分で名乗った理想の仮面ではなく、他者が愛着を込めて呼んでくれたその響きこそが、本当の「名前」なのだと、俺はこの場所で初めて知った。


 マナの結晶に、そっと触れる。

 別れ際に、彼女が泣きながら握らせてくれた、母の形見の光る石。

 それは今も、俺の心臓の鼓動に合わせて、温かい光を宿している。


 この石が、どれだけ俺の旅を支えてくれたか。

 エリアス先生の塔で孤独に耐えた夜も、バリン師の灼熱の鍛冶場でも、そして、あの絶望的な戦場でも。


 この光を見るたび、俺はアンナの笑顔を思い出し、何度でも立ち上がることができた。

 俺は、長い旅の全ての原点を確かめるように、静かな時間を過ごした。


 夕日が、木々の間から差し込み、森を黄金色に染めていく。

 俺は、崖の下の、あの時アンナが座っていた岩に、腰を下ろした。


 ありがとう、アンナ。


 君が、俺を見つけてくれた。

 君が、俺に名前をくれた。

 君が、俺の旅の、全ての理由になってくれた。


 ゆっくりと立ち上がる。

 過去との対話は、もう終わった。

 懐かしい思い出は、全て胸にしまった。


 あとは、前に進むだけだ。

 全ての始まりとなった、たった一人の少女に、会いに行くために。


 俺は、アンナの村へと続く獣道を見据えた。

 その顔には、もう迷いも、恐れもなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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