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第98話:始まりの森へ

 旅は、穏やかだった。

 もう、追われる身ではない。街の喧騒もない。

 ただ、懐かしい北の冷たい風と、土の匂いだけが、俺の道連れだった。


 一日、また一日と歩くうちに、見慣れた景色が増えていく。

 あの、ごつごつとした岩肌が剥き出しの山。緩やかに蛇行する、澄んだ雪解け水の川。かつて必死に猪を追いかけ、逆に追い回された丘。


 数年ぶりに帰る故郷。

 胸に宿るのは、単なる懐かしさだけではなかった。


 恐怖に怯え、同族を憎み、独りで本を読んでいた、あの頃の無力な自分への憐れみ。そして、そんな俺を過去のものにしてくれた、仲間たちとの日々への感謝。


 森の入り口に、立った。

 俺は深く息を吸い込み、変異魔法を解いた。


 陽炎が晴れ、人間の少年の姿から、ありのままの、緑色の肌を持つゴブリンの姿へ。

 ここでは、仮面は必要ない。


 俺は、ゴブスケとして、この森に帰ってきたのだ。

 一歩、足を踏み入れる。 


 湿った森の空気、腐葉土の匂い、木々のさざめき。

 その全てが、俺の感覚を、野生のそれへと引き戻していく。


 目を閉じれば、今でも聞こえてくるようだ。族長の野蛮な雄叫び。同族たちの下品な笑い声。俺が何よりも憎み、そして捨てたはずの場所。

 だが、不思議と、今はもう憎しみは湧いてこなかった。


 それはただ、遠い日の記憶として、そこにあるだけだった。

 記憶を頼りに、獣道を進む。


 やがて、開けた場所に、それはあった。

 俺の、かつての氏族が暮らす集落。

 あの戦争の後、生き残った彼らはここへ戻ってきたのだ。


 以前のような、汚物と腐臭にまみれた混沌とした様子はない。住居は簡素だが修繕され、広場は掃き清められている。中央の焚き火の周りで、数匹の子供のゴブリンが、木の棒を振り回して戦士の真似事をしていた。


 そこには、かつて俺が知らなかった、平和な営みがあった。


 俺の姿に、見張りのゴブリンが気づく。

 彼は一瞬目を見開き、喉の奥で鋭い警戒の唸り声を上げる。その手は、手入れされた槍を強く握りしめていた。


 その声に、集落中のゴブリンたちが一斉にこちらを向いた。

 子供たちのじゃれ合いが止まる。女たちが住居の奥へと姿を隠す。男たちが武器を手に、じりじりと距離を詰めてくる。


 空気が、張り詰める。

 俺は、ただ黙ってその場に立っていた。杖も構えず、敵意も、慈悲も示さずに。


 住居の中から、ひときわ大きな影が現れた。

 族長だった。


 彼は、数年前より少しだけ痩せ、老いたように見えた。その顔には、あの戦争で俺たちを守るために負ったであろう、深い傷跡が走っている。


 彼は、俺の姿を認めると、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 その瞳に、かつて俺に向けられた侮蔑や憎悪の色はなかった。ただ、深い、底なしの沼のような、静かな光だけがあった。


 彼は、俺の目の前で足を止めた。

 長い、沈黙。


 森の木々さえも息を潜め、集落中のゴブリンたちが固唾を飲んで俺たちを見守っている。

 やがて、族長は何も言わずに、その巨大な体をゆっくりと折り曲げ、俺に対して頭を垂れた。


 どよめきが走る。

 それは、力が全てのゴブリン社会では、ありえないことだった。


 最強であるはずの族長が、かつての「出来損ない」に頭を垂れるなど。

 だが、その姿勢に屈辱の色はない。 


 彼は、もはや俺を裏切り者とは呼ばない。一族を救った英雄として、あるいは対等な一人の戦士として、静かに敬意を示したのだ。


 その無言の号令に、他のゴブリンたちも、次々と倣う。

 かつて俺を嘲笑い、石を投げつけた者たちが、今、武器を下ろし、俺の前に頭を垂れている。


 俺は、何も言えなかった。

 ただ、その光景を見つめていた。


 胸の奥で、長年凍りついていた黒い塊が、音を立てて崩れ、溶けていくのを感じた。

 過去は、消えない。傷も、消えない。

 だが、許すことは、できるのかもしれない。


 族長が、顔を上げる。

 そして、ゴブリンの言葉で、ぶっきらぼうに言った。


「(……ふん。生きていたか、小僧)」

 その声は乱暴で、不器用だった。

 だが、その奥にある安堵と、確かな情が、痛いほど伝わってきた。


 俺は、小さく、頷き返した。

 それだけで、十分だった。言葉などいらなかった。


 一匹の女ゴブリンが、おずおずと、焼いた肉の塊を差し出してくる。

 彼らなりの、最大限の歓迎の印。


 俺は、その肉を受け取ると、一口だけかじり、そして静かに彼女に返した。


「(……感謝する。だが、俺はもう行く)」

 俺の言葉に、ゴブリンたちが名残惜しそうにざわめく。

 だが、族長は何も言わなかった。ただ静かに、俺が進むべき道の先を開けた。


 彼は、理解しているのだ。

 俺が、もうこの巣穴に属する者ではないことを。俺には、帰るべき場所が別にあることを。


 彼らに背を向けると、再び森の奥へと歩き出した。

 もう、誰も俺を止めない。石も飛んでこない。

 ただ、静かな敬意の視線だけが、俺の背中を温かく見送っていた。


 旅は、まだ終わらない。

 この森には、最後にもう一つ、会うべき過去が残っている。

 全ての始まり。

 そして、本当の「俺」が生まれた場所へ。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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