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第97話:相棒との約束

 王宮の巨大な門を、俺たちは静かに後にした。

 ヴァレリウス様の執務室で交わされた言葉の重みが、まだ肩に心地よくのしかかっているようだった。

 街の喧騒が、夢のような時間から、現実へと俺たちを引き戻す。


 旅は、終わりが近づいていた。

 全ての挨拶は、終わった。

 俺たちの、最後の旅も、もうすぐ終わる。


 その事実が、三人の間に、言葉にはならない静けさをもたらしていた。

 王都の門へと続く、白い大通りを、俺たちは並んで歩く。


 以前は憎悪と好奇の的だった俺の姿も、今では遠巻きの敬意に変わっている。だが、そんなことは、もうどうでもよかった。俺の隣に、彼らがいる。それだけで十分だった。


「……ま、そういうわけだ」

 最初に沈黙を破ったのは、やはりカシムだった。

 彼は、わざと明るい声で、空を見上げて伸びをした。


「俺は、ここから西の街道だ。エルフの里の連中が、首を長くして待ってるからな。俺がいないと、宴一つ始まらねえらしい」


「……そうか」

 俺は、短く答えることしかできなかった。言葉を重ねれば、声が震えそうだったからだ。


「お前は、王宮に戻んのか?」

 カシムが、セラフィナに尋ねる。


「ええ」

 セラフィナは、短く頷いた。


「師からの新しい研究課題が、山積みですので。感傷に浸っている暇はありません」

 その横顔は、いつものように涼やかだった。だが、その視線が、わずかに、俺たちの間を彷徨っているように見えた。


 王都の外れ、街道が三つに分かれる分岐点。

 俺たちの、別れの場所。

 俺たちは、そこで足を止めた。


 西へ向かう道。王宮へと戻る道。そして、俺が帰るべき、故郷の森へと続く、北の道。


「……じゃあな、ゴブスケ」

 カシムが、俺の前に立った。その顔には、いつもの人を食ったような笑みはない。真剣な、一人の男の顔だった。


「寂しくなるな」


「……ああ」


「たまには、顔、見せに来いよ。エルフの里の酒は、最高だぜ。お前なら、長老たちも大歓迎だ」

 彼は、俺の肩を、力強く叩いた。その手の温もりが、服越しに伝わってくる。


「いつでも来い。お前は、俺の自慢の、最高の相棒だからな」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。視界が滲むのをこらえ、俺はただ強く頷き返した。


「……お前も」

 カシムは、セラフィナに向き直った。


「たまには、息抜きくらいしろよな、鉄面皮。眉間に皺、寄ってるぜ」


「余計なお世話です、三流」

 セラフィナは、ふい、と顔をそむけた。だが、その声にはいつもの鋭い棘はなく、どこか柔らかい響きがあった。


「あなたこそ、その軽薄さで、エルフたちの信用を失わないように、せいぜい努力することですね」


「へっ、これでも全権大使なんでね。任せとけって」

 カシムは、最後に俺たち二人を交互に見ると、ニカっと悪戯っぽく笑った。


「ま、どうせ、またすぐ会うことになるさ。世界が、お前らみたいな面倒な奴らを、放っておくわけねえからな」

 彼はそう言うと、一度も振り返らずに、西の街道を大股で歩き去っていった。 


 その背中は、もう、かつての三流魔術師のものではない。

 一つの種族の未来を背負う、大使の、大きく、頼もしい背中だった。


 残されたのは、俺と、セラフィナだけだった。

 静かな風が、二人の間を吹き抜ける。

 先に口を開いたのは、彼女だった。


「……ゴブスケ」

 彼女は、俺をまっすぐに見つめていた。

 その氷のような瞳の奥に、俺が今まで見たことのない、穏やかで、温かい光が宿っている。


「道に、迷うなよ」

 彼女は、ただ静かに、それだけを告げた。


 それは、物理的な道のことではない。俺がこれから一人で歩む、「ゴブスケ」としての魂の旅路のことを言っているのだと分かった。


「ああ」


「師の期待を、裏切るな」


「……分かっている」


「そして……」

 彼女は、一瞬だけ言葉を区切り、目を伏せた。そして、もう一度俺を見て、祈るように囁いた。


「……死ぬな」

 その声は、風に消え入りそうなほど、か細かった。


 俺は、彼女の目を見て、静かに、深く頷いた。

 彼女は、それ以上、何も言わなかった。

 くるりと踵を返すと、王宮へと続く道を、一人、歩き始めた。


 白銀の装飾が施されたローブが、夕日に照らされて、キラキラと輝いている。

 その背筋は、どこまでもまっすぐに伸びていた。

 王国の未来を支える、若き天才魔術師の、孤高の背中。


 一人になった。


 西日を背に、二つの影が、それぞれの道へと遠ざかっていく。

 もう、ここにはいない、二人の仲間の温もりと、言葉だけを、胸に残して。


 俺は、すぐには歩き出せなかった。

 ただ、分岐点の真ん中に立ち、二人が消えていった道を、そして、これから自分が進むべき道を、見つめていた。


 風が、頬を撫でる。

 その冷たさが、孤独を思い出させる。

 だが、もう、あの頃のような、凍えるような絶望的な孤独ではない。


『……ずいぶん、遠くまで来たな』

 ふと、そんな思いが、胸をよぎった。


 始まりは、あの薄暗い洞窟だった。

 俺は、自分のことを「ヒューマン太郎」と呼んでいた。ゴミ捨て場から拾った本だけが、世界の全てだった。人間とは、絵本の中の騎士や魔法使いのような、完璧で、気高い存在なのだと、信じて疑わなかった。 


 あの頃の俺が見たら、今の俺を、どう思うだろうか。

 人間の仲間と肩を並べ、世界を救い、英雄と呼ばれたゴブリン。


 きっと、想像もできないだろう。

 アンナ。

 君と出会わなければ、俺はまだ、あの洞窟の中で、一人で本を読んでいただけかもしれない。


 君がくれた「ゴブスケ」という名前が、俺を、ただのゴブリンではない、何かにしてくれた。


 マナの結晶に、そっと触れる。

 石は、俺の心に応えるように、温かい光を宿した。

 この温もりだけが、俺の旅の、最初の、そして最後の道しるべだった。


 エリアス先生。

 あなたに会わなければ、俺は魔法の本当の意味を知ることもなく、ただ力を振り回すだけの、危険な獣になっていたでしょう。


 あなたがくれた、あの白紙の魔導書。その重みが、今なら分かる。

 誰かの物語をなぞるのではなく、俺自身の物語を、これから書くのだと。


 バリン師。

 あなたの鎚音は、今も耳の奥に響いている。

 杖に頼るな、己を磨け。その言葉は、俺の魂に刻まれたルーンだ。


 ヴァレリウス様。

 あなたは、俺を駒だと言った。だが、最後には、プレイヤーだと認めてくれた。

 あなたのチェス盤の上で、俺は、俺だけの動きをしてみせる。


 そして、カシム。セラフィナ。

 最高の相棒と、最高のライバル。


 お前たちがいなければ、俺は、とっくの昔に、どこかで野垂れ死んでいたか、絶望に心を食い尽くされていた。


 独りじゃないと、教えてくれたのは、お前たちだ。

 俺たちは、それぞれの道で、世界を支えていく。

 そう、誓い合った。

 そして、いつか、また必ず会うことを、言葉もなく、約束した。


 俺は、最後に、二人が消えていった道を、もう一度だけ振り返った。

 そして、前を向く。


 目の前には、北へと続く、一本の道。

 その道の先に、俺の、全ての始まりの場所がある。

 俺は、ゆっくりと、しかし力強く、その最初の一歩を踏み出した。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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