第96話:王宮のチェス盤
賢者の森を後にし、俺たちの旅は、全ての始まりの場所の一つである王都シルバーストリームへと向かった。
かつて、この街を囲む白亜の巨大な壁は、俺にとって絶望と拒絶の象徴だった。
ボロボロのフードで全身を隠し、衛兵の視線に怯え、石を投げられないようにこそこそと裏路地を這い回ったあの日々。
だが、今は違う。
俺は、変身魔法で整えた人間の少年「スケ」の姿で、堂々と大通りを歩いていた。
隣には、王国の至宝たる宮廷魔術師セラフィナと、エルフの里からの全権大使であるカシムが並び立っている。
すれ違う人々は、俺の顔を二度見し、ひそひそと噂を交わす。
「おい、あれを見ろ。あの少年が、噂の……」
「ああ。”調停役”の英雄様だ」
「本当はゴブリンだという噂だが……まさかな」
その視線に、もはやかつてのような侮蔑や憎悪の色は薄い。
あるのは、理解を超えた存在への、純粋な好奇心と、英雄に対する畏敬の念だけだった。
俺は背筋を伸ばし、その視線を真っ直ぐに受け止めて歩く。隠れる必要など、もうどこにもないのだ。
俺たちは、誰に止められることもなく、王宮の最奥、宮廷魔術師長ヴァレリウス様の執務室へと通された。
完璧に整頓された、静寂の空間。
音もなく回転する巨大な天球儀。整然と並ぶ書物。塵一つない床。
エリアス先生の、生命力に溢れた混沌とした書斎とは、何もかもが正反対の、冷たく美しい理性の世界。
だが、あの時感じたような、場違いな息苦しさは、もうなかった。
ヴァレリウス様は、窓際に立ち、豪奢なチェス盤を前にして、一人、駒を動かしていた。
俺たちの入室に気づくと、彼は駒を指に挟んだまま、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は、相変わらず宝石のように冷たく、硬い。だが、かつて俺を単なる「珍しい実験動物」として見ていた、あの無機質な光は消えていた。
「……来たかね」
彼の声は、静かだった。
「調停役としての君の働きは、全て報告書で読んでいる。……なかなか、面白い盤面を創り出してくれているようだ」
「師よ、ただいま戻りました」
セラフィナが、スカートの裾をつまみ、優雅に一礼する。
「へへっ、どうも、ヴァレリウス様。こいつ、俺がいなきゃ交渉一つできねえもんでね。世話が焼けましたよ」
カシムが、おどけた調子で軽口を叩く。
ヴァレリウス様は、そんな二人を一瞥すると、口元を微かに緩め、その視線を再び俺へと戻した。
「ゴブスケ。君は、この数年で多くのことを学んだようだ。エリアスも、バリンも、そして星の民やエルフたちも、君に何かを与えた。……だが、君もまた、この世界に、不可逆的な変化を与えた」
彼は、手元のチェス盤を、細く長い指で指し示した。
白と黒の、完璧な秩序で支配された盤上。
だが、その中央に、一つだけ、白でも黒でもない、灰色の石で作られた、歪で奇妙な駒が置かれていた。
「世界は、より複雑で、より美しいゲームになった」
ヴァレリウス様は、噛み締めるように言った。
「君の存在が、新しい駒をこの盤上に生み出したのだよ」
彼は、その灰色の駒を、指先でそっと動かした。
たった一手の前進。
だがその一手で、盤上で膠着していた白と黒の駒の配置が意味を失い、全く新しい関係性が生まれた。敵対していた駒同士が支え合い、孤立していた王が守られる。
「人間と、ゴブリン。光と、闇。秩序と、混沌。世界は、単純な二元論で成り立っているわけではない。君という、どちらにも属さない、そしてどちらとも交わることのできる『第三の選択肢』が現れたことで、この盤面のルールそのものが、根底から覆った」
彼の言葉は、もはや、師から弟子への教えではなかった。
同じ難解なゲームをプレイする、対等な好敵手への、敬意に満ちた盤面解説。
「私は、完璧な調和を好む。エリアスは、予測不能な混沌を愛する。だが、我々は根底では同じなのだよ。この世界の理が、君という特異点によってどのように動き、どのように変化していくのかを、ただ最前列で観測していたい。……その点においてはな」
ヴァレリウス様は、俺の目を、まっすぐに見た。
その瞳に、初めて、同好の士を見つけたかのような、かすかな愉悦の色が浮かんでいた。
「君は、もはや観測されるだけの駒ではない。自らの意志で盤面を動かし、ルールさえも書き換える、プレイヤーの一人となった。……ゴブスケ。君は、我々と同類だ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
エリアス先生は、俺に「自分の物語を書け」と言った。情熱と意志の話だ。
そして、ヴァレリウス様は、俺を「共に世界を動かす者」と認めた。理と責任の話だ。
二人の偉大な師は、それぞれのやり方で、俺の「卒業」を告げてくれていたのだ。
「……光栄です」
俺は、深く、静かに頭を下げた。
かつての支配と被支配の関係が終わり、対等な知性の交流へと昇華された瞬間だった。
「さて」
ヴァレリウス様は、チェス盤から目を離すと、セラフィナとカシムに向き直った。
「君たちの『公務』という名の感傷旅行も、これで終わりかね」
その言葉には、全てを見透かしたような、かすかな皮肉と温かさが込められていた。
「は、はい! おかげさまで、大変有意義な視察となりました!」
カシムが、慌てて背筋を伸ばして敬礼する。
セラフィナは、何も言わずに、静かに、満足げに頷いた。
俺は、この完璧な執務室を見渡した。
初めてここへ来た時、俺は恐れ、罪人のように震えていた。
だが、今は違う。
俺は、この世界のプレイヤーの一人として、堂々とここに立っている。
「……行きます」
俺は、二人の師に、そして、ここまで共に歩んでくれた二人の仲間に、心の中で告げた。
ここから先は、俺一人の足で踏み出さなければならない。
最後の、そして始まりの場所へ。
俺たちが執務室を後にする時、ヴァレリウス様は、もうチェス盤に視線を戻していた。
振り返りざま、彼の指が、あの灰色の駒に、愛おしげにそっと触れるのが見えた。
あの駒は、俺だ。
白でも黒でもない、どちらにも属さない、異質な駒。
だが、もう誰かに動かされるだけの駒ではない。
俺は、俺自身の意志で、この盤上を歩く。
俺は、静かに扉を閉めた。
その向こうには、俺が帰るべき場所が、待っている。
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