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第95話:賢者の書斎にて


 竜の顎山脈を後にし、俺たちの旅は続いた。

 目指すは、賢者の森。

 俺が初めて、本物の魔法と、本物の師に出会った、全ての始まりの場所。


「……おい、ゴブスケ。ついに、来ちまうんだな」

 道中、カシムは興奮と恐怖が入り混じった顔で、何度も俺に話しかけてきた。


「お前の話でしか聞いたことねえけどよ……あのヴァレリウス様が唯一、宿敵と認める大魔法使い……。伝説の賢者エリアス……! 俺、会って気絶しねえかな」


「……気難しくて、理屈っぽいだけだ。それに、口も悪い」


「ヴァレリウス様とは、また違う種類の魔道の頂点……。どのような方なのか、私も純粋に興味があります」

 隣を歩くセラフィナも、その瞳に緊張と、魔術師としての敬意を浮かべていた。


 数週間の旅の末、俺たちはその森の入り口にたどり着いた。

 一歩足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。

 濃密なマナが霧のように立ち込め、肌をピリピリと刺激する。


「……ッ、なんだ、この魔力は」

 セラフィナが、息を呑んで足を止めた。


「王宮の、完璧に制御・管理された魔力とは違う。荒々しく、無秩序で……しかし、圧倒的な生命力に満ち溢れている。これが、古の魔力……」


「へへっ、こりゃ、とんでもねえな。ヴァレリウス様の完璧な庭園とは真逆だ。森そのものが、巨大な生き物みたいに脈打ってやがる」

 カシムも、その圧倒的な気配に圧され、額に汗を浮かべていた。


 森の奥、鬱蒼と茂る木々の向こうに、天を突く一本の石塔が見えてくる。

 懐かしい、俺の学び舎。


 塔に近づくと、見えない壁が俺たちの行く手を阻んだ。拒絶の結界だ。

 俺は、あの時と同じように、結界にそっと手を触れた。魔力波長を同調させる。


「……ゴブスケだ。師に、会いに来た」

 その時、目の前の空間が、陽炎のように揺らめいた。


 音もなく、一人の老人がすっと姿を現す。

 長く白い髭。夜空のように深い色のローブ。その瞳は、老いを感じさせないほど鋭く、俺たちの魂の底まで見透かすようだった。


 エリアス先生。

 彼は、まず俺の姿を一瞥した。今は、変身魔法で人間の少年の姿をしている。


 次に、その隣に立つカシムとセラフィナを、値踏みするようにじろりと見た。

 やがて、彼は、心底面倒くさそうに、しかし、その口元にかすかな笑みを浮かべて、言った。


「……まだ生きておったか、出来損ないめ」

 その懐かしい罵倒に、胸が熱くなる。


「は、はは……! こ、これが、あの伝説の……!」

 カシムが、その圧倒的な存在感を前に、引きつった笑いを浮かべる。


 セラフィナは、俺の後ろで、静かに、しかし深く、伝説の大魔術師に対して最敬礼をした。

 エリアス先生は、俺たちに背を向けると、扉のないはずの塔の壁に手を触れた。


 石の壁が水面のように揺らめき、螺旋階段が奥へと続く入り口が現れる。


「……入れ。茶も出さんぞ」

 塔の中は、相変わらず混沌としていた。


 床から天井まで埋め尽くす無数の本棚。読みかけの魔導書と、怪しげな薬草の山。インクと古紙の匂い。

 だが、その混沌が、今の俺には、実家のように心地よかった。 


 エリアス先生は、俺たちを書斎へと導くと、自分の椅子にどかりと腰を下ろした。

「で、何の用じゃ。ワシは忙しい」

 彼は、分厚い魔導書を開きながら、視線もくれずに言った。


「……礼を、言いに」


「いらん」


 俺が言葉を続けようとすると、彼の視線がふと上がり、俺が持つ杖に、ぴたりと止まった。


「……ほう。あの頑固者バリンが、まともな仕事をしおってからに。守りのルーンか。お前には、分不相応な代物じゃわい」

 彼は、俺の杖を一瞥しただけでその本質を見抜き、もう興味を失ったかのように、本のページをめくった。


 俺は、書斎の中を見渡した。

 そして、部屋の隅の方に、それを見つけた。 


 俺が勉強に使っていた、平らな岩の机。その上には、俺が読み古した『初等魔導緒論』が、あの時のまま、置かれている。


 埃ひとつ被っていない。

 数年の時が経ったというのに、そこだけ、時間が止まっているかのようだった。 


「……邪魔だから捨てようと思うたが、ゴミを森に捨てるのも、面倒でな」

 俺の視線に気づいたエリアス先生が、本から目を離さずに、独り言のように呟いた。


 そのぶっきらぼうな嘘が、俺の胸に、痛いほど温かく染みた。彼は、待っていてくれたのだ。

 彼は、不意に本を閉じた。

 そして、椅子から立ち上がり、俺をまっすぐに見つめた。


「……で、答えは、見つかったのか。出来損ない」


「答え……?」


「人間になる、だの、架け橋になる、だの。お前がここを出る時に喚いておった、その青臭い夢の、答えじゃ」

 俺は、一瞬言葉に詰まった。 


 完全な答えなんて、まだない。争いはまだあるし、俺自身の正体についても、悩むことはある。

 俺は、正直に首を横に振った。


「……まだ、分かりません。ただ、探し続ける覚悟だけは、できました」

 エリアス先生は、俺の目を見つめ返し、ふん、と鼻を鳴らした。


「……まあ、合格点じゃな」

 彼は、書斎の奥にある、厳重に鍵のかかった棚を開けた。


 そして、中から、一冊の本を取り出してくる。

 それは、美しい竜革で装丁された、見るからに高価な魔導書だった。


 だが、奇妙なことに、その表紙には、タイトルも、著者名も、何の文字も書かれていない。

 彼は、その本を、俺に差し出した。


「……これは?」


「白紙の魔導書じゃ」

 俺は、戸惑いながら、それを受け取った。ずしりと重い。最高級の羊皮紙が束ねられている。


 ページを開くと、どこまでも続く、真っ白な紙面が広がっていた。一文字も、書かれていない。


「お前は、もう、ワシの本を読むだけの生徒ではない」

 エリアス先生は、厳しく、そして優しく告げた。


「誰かの知識をなぞるな。誰かの真似事をするな。お前の物語は、お前自身で書けということじゃ」

 その言葉が、雷のように、俺の心を貫いた。 


 これまで俺は、人間になりたくて、人間の真似をしてきた。

 だが、これからは違う。

 俺自身の言葉で。俺自身の魔法で。

 「ゴブスケ」という、新しい存在の物語を、この白紙に刻んでいくのだ。


 それが、この気難しい師からの、最後の授業であり、卒業の証だった。


「……分かったら、さっさと行け! ワシの研究の邪魔じゃ!」

 彼は、照れ隠しのように怒鳴ると、再び椅子に座り、分厚い魔導書の世界へと戻ってしまった。 


 その背中は、もう、俺たちの方を見ようともしない。

 俺は、白紙の魔導書を、強く抱きしめた。


 そして、この塔での全てを教えてくれた師の背中に、深く、長く、頭を下げた。

「……ありがとうございました、先生」

 俺たちは、誰に言われるでもなく、静かに書斎を後にした。


 塔の外に出ると、森の澄んだ空気が、肺を満たす。

 手の中には、まだ何も書かれていない、無限の可能性があった。

 俺だけの物語が、ここからまた、始まるのだ。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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