第94話:頑固者の仕事
大図書館の街を後にして、俺たちの足は北の果て、「竜の顎」と呼ばれる山脈へと向かった。
天を突き刺すように連なる、峻厳な岩山。かつて俺が、たった一人で「星屑鉄」を求め、怪物アラクネと死闘を繰り広げた場所だ。
「マジかよ……ここを登るのか?」
谷底から吹き上げる刃のような強風に、カシムがマントを抑えながら悲鳴を上げた。
「ゴブスケ、お前、よくこんな地獄みたいな場所を一人で越えられたな」
「……あの時は、必死だったからな」
俺は、崖の中腹に穿たれた、見覚えのある洞窟の入り口を見上げた。
規則正しく吐き出される黒い煙。そして、地の底から響く、山の鼓動のような金属音。
バリン師は、変わらずここにいる。
洞窟の中は、肌を焦がすような灼熱の空気で満ちていた。
巨大な炉の前に、岩塊のようなドワーフが一人、一心不乱に鎚を振るっている。
キン……、ゴォン……!
鼓膜を揺さぶり、骨の髄まで響く、重く、澄んだ音。
それは単なる鍛冶の音ではない。鉄に命を吹き込む、神聖な儀式のようだった。
俺たちは、そのあまりの迫力に、声をかけることすら忘れ、ただ入り口で立ち尽くしていた。
やがて、バリン師は鎚を振り下ろすのをやめ、赤熱した鉄塊を水桶へと突き刺した。
ジュウウウウウッという凄まじい音と共に、爆発的な水蒸気が立ち上る。
そして訪れた静寂の中、彼はゆっくりと、俺たちの方へと顔を向けた。
その瞳は、炉の炎のように赤く、そして何者も寄せ付けぬほど険しい。
「……ふん。また来たか、ゴブリン」
彼のしゃがれた声が、熱気に満ちた鍛冶場に響いた。俺が今、人間の姿をしていることなど、彼の眼力の前には何の意味もなさなかった。
「何の用じゃ。今度は蜘蛛の巣でも退治してくれるのか」
「違う。礼を、言いに来た」
俺は、帽子を取り、深く頭を下げた。
「この杖のおかげで、俺は生き延びることができた。そして、世界を……」
「礼などいらん」
バリン師は、俺の言葉を無愛想に遮った。
「ワシは、エリアスの借りを返しただけじゃ。それに、仕事の対価は、あの『星屑鉄』できっちり受け取っておる」
「まあまあ、そう言わずに、親父さん!」
カシムが、いつもの調子で前に出た。
「俺たちは、あんたの腕に惚れ込んでんだ! こいつの杖、もっとこう、ピカピカ光るように改造とかできねえか? 代金は、弾むぜ!」
彼は、懐からずっしりと重い金貨の袋を取り出して見せる。
バリン師は、その金貨を一瞥すると、心底くだらないというように、床に唾を吐き捨てた。
「金だと? ワシの仕事は、そんなつまらんもので動くと思うておるのか、この軽薄な人間め。その杖は、持ち主の魂を映す鏡じゃ。これ以上、何を飾る必要がある。……失せろ」
「なんと無礼な……!」
セラフィナが、その高圧的な態度に、カッと眉を吊り上げた。
「あなたは、伝説のルーンスミスと伺っています。その力が、ゴブリン一匹の武器を鍛えるだけで終わるとは、あまりに勿体ない。我ら王宮魔導師団の……」
「王宮だと?」
バリン師は、セラフィナの言葉を、鼻で笑い飛ばした。
「ワシは、王にも、国にも仕えん。ワシが仕えるのは、この鎚と、炉の炎だけじゃ。分かったら、ゴブリンも、人間も、まとめてとっとと帰れ。ワシは忙しい」
彼は、俺たちに背を向けると、再び金床の上の鉄塊へと向き合おうとした。
俺は、一歩、前へ出た。
そして、自分が持つ杖を、両手で捧げ持ち、彼の前に静かに差し出した。
バリン師の動きが、止まる。
彼は、俺の顔と、俺が差し出した杖を、交互に見比べた。
杖に巻き付いたルーンの帯は、度重なる激戦と旅の汚れでくすみ、先端のマナの結晶にも、無数の細かな傷がついている。
だが、杖全体から放たれる魔力の輝きは、俺がここを旅立った時よりも、ずっと太く、強く、そして持ち主と深く馴染んでいた。
「……貸してみろ」
彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、俺の手から杖をひったくった。
そして、その杖を、まるで長い旅から帰った我が子を検分するかのように、隅々まで、厳しい目で確かめ始めた。
節くれだった指でルーンをなぞり、金属の歪みを確かめ、結晶の傷に爪を立てる。
長い、沈黙。
ただ、炉の燃える音だけが響く。
やがて、彼は、誰に言うでもなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「……馬鹿みたいに、振り回したようじゃな」
その声には、怒りではなく、ほんのわずかな、使い込まれた道具を見た職人としての満足の色が滲んでいた。
「だが、手入れはなっておらん。これでは、せっかくのワシの仕事が泣くわ」
彼はそう言うと、俺たちに背を向け、再び炉へと向かった。
そして、金床へと、俺の杖を置く。
彼は、旅で酷使された杖を、完璧に手入れし始めたのだ。
言葉ではない。仕事で、俺の成長を認め、敬意を示してくれている。
それが、不器用なドワーフの、最高の対話だった。
セラフィナも、カシムも、もう何も言わなかった。
ただ、その神聖な儀式を、固唾を飲んで見守っている。
バリン師は、まず、杖に巻き付いた金属の帯を、特殊な油で丁寧に磨き上げた。煤けていたルーン文字が、再び、星屑のような輝きを取り戻していく。
次に、先端のマナの結晶。彼は、竜の皮でできた分厚い布で、その表面の傷を、ミリ単位の精度で研磨していく。結晶は、生まれたてのように、一点の曇りもない、深い蒼色の輝きを放ち始めた。
そして、最後に。
彼は、これまで使っていた大鎚よりも、一回り小さな、銀色の鎚を手に取った。
杖の柄。俺が、いつも握りしめていた場所。
彼は、そこに、新しいルーンを、一つ、刻み込もうとしていた。
チィン、チィン、と。
これまでの轟音とは違う、繊細で、澄んだ音が、鍛冶場に響く。
一振り、また一振り。
火花が散るたびに、新たな魔力が杖に宿る。彼は、俺の魂の形を、そこに刻み込んでいるようだった。
やがて、彼は鎚を置くと、完成した杖を、俺に放り投げた。
「……持って行け」
俺は、それを受け取った。
杖が、手に吸い付く。以前よりも軽く、そして体の一部のように馴染む。
新しく刻まれたルーンが、俺の魔力に呼応して、温かい光を放った。
「……ありがとう、バリン師」
俺の、心からの感謝の言葉。
彼は、それに答えず、ただ、炉の炎を見つめていた。
「ワシの仕事は、終わった。もう、来るな」
その背中は、どこまでも頑固で、ぶっきらぼうだった。
だが、俺には、確かに聞こえた。
その言葉の奥にある、「達者でな」という、不器用な労いの声が。
俺たちは、誰に言われるでもなく、静かに、深く頭を下げると、その熱く神聖な鍛冶場を、後にした。
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