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第92話:英雄の素顔


 俺たちの旅の最初の目的地は、ポルタ・フィエラ。

 かつて、俺が初めて「人間の仮面」の重さを知った、あの活気あふれる商業都市だ。


 街の門を前に、俺は一度目を閉じる。

 目を開けると、カシムが俺の服装を整えてくれていた。


「よし、完璧な『スケ』の完成だ」


「ああ」

 俺は短く頷き、門の中へと足を踏み入れた。


 街の喧騒は、数年前と何も変わらない。

 客引きの怒声。どこかの店の主人の笑い声。香辛料の、鼻をつく匂い。

 だが、俺たちを見る人々の目は、以前とは全く違っていた。


「カシム様だ!」

 誰かが叫んだ。


「奇病から俺たちを救ってくれた、あの薬師様が帰ってきたぞ!」

 その声が引き金だった。


 人々が、俺たちに駆け寄ってくる。特に、貧民街だった地区の者たちの顔には、純粋な喜びと感謝が浮かんでいた。


「カシム様、おかえりなさい!」


「あなた様は、この街の英雄です!」

 カシムは、その歓声に、少し照れくさそうに、しかし満更でもない顔で手を振っている。


「おお、スケ君じゃないか! 君は変わらないな!」

 声をかけてきたのは、あの果物屋の主人だった。


 彼は、屋台で一番大きくて艶のあるリンゴを手に取ると、それを俺に、ぽんと手渡してくれた。


「これも持っていきな。英雄殿の、一番弟子さんよ!」

 差し出されたリンゴ。温かい、人々の善意。


 数年前は、その重さに罪悪感を覚えた。騙していることへの後ろめたさが、胸を締め付けた。

 だが、今は違う。


 いつか、この親切に、仮面の下の本当の俺として応えたい。その想いが、胸の奥で静かに燃えていた。

 その、熱烈な歓迎の輪を切り裂くように、街の広場から、甲高い警鐘の音が鳴り響いた。


「何事だ!?」


「地下水路からだ! ”あれ”が、暴れ出したぞ!」

 人々の顔から、笑顔が一瞬で消える。恐怖と混乱が、波紋のように広がっていった。


 衛兵たちが、広場の一角にある地下水路への入り口を、槍で封鎖していた。その鉄格子の向こうの暗闇から、獣の咆哮と、石壁が砕かれる轟音が、断続的に響いてくる。


「どうなっている!」

 カシムが、衛兵の隊長らしき男に尋ねた。


「それが……南方の商人が違法に持ち込んだ、『グレイブワーム』という魔物が、輸送中に逃げ出して……!」

 隊長は、青い顔で答えた。


「奴は光を極端に嫌い、音と匂いにだけ過敏に反応します。地下水路の完全な闇の中では、松明も魔法の光も、奴を刺激して逆効果になる。数人の部下を送り込みましたが、返り討ちにあいました……!」

 その解決には、人間の能力を超えた、別の感覚が不可欠だった。


 暗闇を見通す目。微かな気配を嗅ぎ分ける鼻。狭い場所を音もなく駆ける俊敏さ。

 それは、ゴブリンの特性そのものだった。

 俺は、ゴクリと喉を鳴らした。


「俺に任せろ!」

 カシムが、無理やり自信を作って胸を叩く。


「眠り薬でも、毒薬でも、調合して水路に流し込んでやる!」


「無駄です」

 セラフィナが、冷静にそれを否定した。


「グレイブワームの外皮は、ほとんどの薬品を弾きます。それに、水路全体に毒を流せば、街の井戸が汚染される危険性もある。リスクが高すぎます」


「じゃあ、どうすんだよ! 指をくわえて見てろってのか!」

 俺は、決意した。


『……俺しか、いない』

 この危機を、最も速く、そして確実に解決できるのは、俺だけだ。

 だが、そのためには。


 この、人々に愛された「人間の仮面」を、脱がなければならない。

 俺の葛藤を、仲間たちは察していた。


「スケ……。やめとけ。お前の気持ちは分かるが……」

 カシムが、俺の肩を掴む手が震えている。


「……師からの命令は、あなたの保護です。あえて今、正体を晒してまで危険を冒す必要は……」

 セラフィナも、静かに俺を制止する。彼女の論理的な言葉の裏に、俺を心配する感情が見え隠れしていた。


 俺は、街の人々を見た。


 恐怖に怯える、子供の顔。俺にリンゴをくれた、果物屋の主人の顔。

 彼らが、俺を「英雄の弟子」として、笑顔で迎えてくれた、その温かい記憶。


 この笑顔を、偽りのまま、終わらせていいのか?

 違う。


「……二人とも、下がっていてくれ」

 俺は、カシムとセラフィナの制止を振り切った。


 二人は一瞬驚いた顔をしたが、俺の目を見て、何かを悟ったように息を呑んだ。そして、無言で頷くと、俺のために道を空けた。


 俺は、人々が見守る広場の中心へと、一人、歩みを進める。

 自らの意志で「人間の仮面」を脱ぎ捨て、ありのままの自分で人間社会からの信頼を勝ち取る。


 その時が、来たのだ。

 俺は、深く息を吸うと、変異魔法を解いた。


 人間の少年の輪郭が、陽炎のように揺らめく。

 肌が、失われた緑を取り戻し、耳が、鋭く尖っていく。

 そのありえない光景に、広場が、死んだように静まり返った。


「うそ……だろ……?」

「スケ君が……ゴブリン……?」

「化け物だったのか!」

「俺たちを、騙していたのか!」

 歓迎の声は、一瞬で、恐怖と、裏切られたという怒りの声に変わった。


 俺は、その突き刺さるような憎悪の視線を、全身で受け止めた。言い訳はしない。今は、行動で示すしかない。


 俺は何も言わずに、地下水路の入り口へと向かう。鉄格子を、その手でこじ開け、迷いなく、暗闇の中へと、その身を投じた。


 地下は、完全な闇だった。

 だが、俺の目には、壁を伝う水滴の一粒一粒まで、はっきりと見えている。

 鼻を打つ腐臭の中から、獣特有の刺激臭だけを嗅ぎ分ける。


 いた。


 トンネルの奥で、巨大な芋虫のような魔物が、鎌のような牙を剥き出しにして、こちらを威嚇している。

 俺は、杖を構えなかった。光を使えば、街まで被害が及ぶ。


 俺はただ、腰に下げた一本のナイフを抜き、大地を蹴った。

 音もなく、風のように、その背後に回り込む。


 一瞬の交錯。

 グレイブワームの甲高い悲鳴が、一度だけ響き、そして、動かなくなった。


 俺は、緑色の肌に返り血を浴びたまま、地上へと戻った。

 広場は、まだ静まり返っている。


 人々は、恐怖の目で、俺を見ていた。

 だが、その視線の中に、かすかな変化が生まれていた。


 単なる化け物を見る目ではない。

 戸惑い。混乱。そして、理解を超えた強さと献身への、畏れ。


 俺が、命懸けで街を救う姿。

 彼らは、それを、確かに見ていたのだ。


 重苦しい沈黙の中、一人の子供が、母親の手を振りほどき、俺の元へ駆け寄ってきた。

 そして、小さな花を、俺の足元に、そっと置いた。

 震える声で、それでもはっきりと。


「……ありがとう」

 その小さな声に、広場の凍りついた空気が、ひび割れた。


 果物屋の主人が、おそるおそる、俺に声をかける。

「……あんた、一体……」


 俺は、真っ直ぐに彼を見て、答えた。

「俺は、ゴブスケだ」

 人々は、まだ戸惑っている。恐怖も消えてはいない。

 だが、彼らは、確かに、受け入れ始めていた。


 「スケ」という美しい仮面ではなく、「ゴブスケ」という、不器用で、泥臭い、ありのままの俺の存在を。


 カシムが、俺の隣に並び、ニカっと笑って俺の肩を叩いた。

 セラフィナも、静かに俺の反対側に立ち、群衆に向かって毅然と胸を張った。


 その光景こそが、彼らへの、何よりの答えだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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