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第91話:調停者の日々


 あれから、数年の時が流れた。

 世界には、不完全ながらも、確かな平和が訪れている。


 人間領とゴブリン領の境界線上に築かれた砦の街、「調停都市・いしずえ」。


 かつて血で洗われた戦場跡に、ヴァレリウス様と、和平を受け入れたゴブリンの氏族長たちが協力して作り上げた、中立の街だ。


 その中心にある調停院の、硬い石の椅子に、俺は座っていた。

 目の前の円卓では、人間の商人と、ゴブリンの氏族長たちが、互いに憎悪の視線を交わしながら怒鳴り合っている。


「我らの土地で、勝手に木を伐るなと言っている! 条約違反だ!」


「(土地だと? 笑わせるな! あの山は、我らの祖父の代からの狩場だ!)」


「これだから言葉の通じぬ野蛮な獣は!」


「(鉄の塊に隠れることしかできぬ弱者が、偉そうに!)」


 俺は、こめかみを押さえ、深く息を吐いた。

 これが、俺の日常だ。


 あの日、戦場で生まれた奇跡は、確かに戦争という大きな炎を消し止めた。だが、何百年と続いてきた憎しみという残り火を、完全に消し去ったわけではない。


 些細な利権、古い恨み、文化の違い。無数の火種が、今も世界のあちこちで燻り、それらは全て、最終的に「調停役」である俺の元へ持ち込まれる。


 ゴブリンの言葉を人間に。人間の理屈をゴブリンに。

 それを翻訳し、噛み砕き、互いの妥協点を探る。地味で、神経を削り、終わりの見えない根気仕事。


「……静かに」

 俺は、声を張り上げることなく、静かに言った。


 たったそれだけで、あれほど唾を飛ばして罵り合っていた人間もゴブリンも、ぴたりと口を噤んだ。

 俺を見る彼らの目にあるのは、親愛ではない。


 ある種の「畏れ」だ。


 かつて戦争を止めた英雄。二つの言葉を操り、人間と魔物の間に立つ、世界で唯一の異端者。


 数時間に及ぶヒリつくような交渉の末、山の一角に共同の管理区域を設けるという妥協案で、ようやく話がまとまった。


 商人たちは舌打ちしながら部屋を出ていき、ゴブリンたちも不満げに唸りながら帰っていく。

 誰からも感謝されることはない。それがこの仕事だ。 


 一人、がらんとした調停院に残される。

 どっと、鉛のような疲労が肩にのしかかった。

 窓の外を見れば、空はもう茜色に染まっている。


『……帰りたいな』

 ふと、弱音が漏れた。


 アンナのいる、あの静かな森へ。

 だが、今の俺は「世界の調停者」だ。俺がここを離れれば、また争いが起きるかもしれない。

 帰る資格も、時間も、今の俺にはなかった。


 その夜。

 調停院に併設された質素な自室で、明日の会議のための資料を整理していると、不躾に扉が蹴り開けられた。


「よう、相棒! まだ仕事かよ!」

 部屋に入ってきたのは、豪奢な緑のローブを纏った男、カシムだった。


 エルフの里の伝統的な意匠を取り入れたその装いは、彼が今や「エルフと人間の橋渡し役」として重要な地位にいることを示している。


 その顔には、かつて三流魔術師として燻っていた頃の卑屈な影はなく、数々の修羅場を潜り抜けた自信と、大人の男の風格が漂っていた。


「……カシム。ノックくらいしろと言っているだろう」


「へっ、今更だろ。それよりゴブスケ、お前、鏡見たことあるか? ひでえ顔だぞ」

 カシムは、俺の机に積み上げられた書類の山を、呆れたように指差した。


「噂は聞いてるぜ。両種族の喧嘩の仲裁で、毎日休みなしで走り回ってるんだってな。世界を救った後まで、真面目すぎるんだよ、お前は」


「……職務だ。誰かがやらなければならない」


「ですが、効率が悪いのも事実です」

 カシムの後ろから、氷のように澄んだ、凛とした声が響いた。

 部屋の入り口に、セラフィナが腕を組んで立っていた。


 彼女は、王宮からの特命視察官として、数日前からこの街に滞在していた。その佇まいは、以前にも増して洗練され、近寄りがたいほどの冷徹な美しさと威厳を放っている。


「セラフィナまで……どうしたんだ、二人とも」

 思わぬ来訪者の揃い踏みに、俺はペンを置いた。


「あなたに会いに来たに決まっているでしょう」

 セラフィナは、散らかった俺の執務室を見回すと、微かに眉をひそめた。


「先日、あなたの調停記録を拝見しましたが、あまりに丁寧すぎます。相手の感情に配慮しすぎです。もう少し、あなたの持つ『権威』で押し潰すという選択肢を覚えたらどうです?」


「へっ、お前は相変わらずそればっかりだな、氷の女」

 カシムが軽口を叩き、セラフィナが冷ややかな視線で返す。


 二人の、変わらないやり取り。

 その懐かしい光景を見た瞬間、俺の心の中で、ずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような気がした。


 体の芯から力が抜け、俺はそのまま、椅子に深く沈み込んだ。


「おい、ゴブスケ!?」

 カシムが、慌てて俺の顔を覗き込む。


「……すまない。少し、疲れただけだ」


「少し、だと? 目の下の隈を見てみろ。いつから寝てない」

 カシムの声から、軽薄な響きが消えた。真剣な眼差しが、俺を射抜く。


「戦争は終わったんだ。お前は、世界を救ったんだぞ。……なのに、なんでお前だけが、まだ戦場にいるみてえな顔してんだよ」

 彼は、俺の痩せた肩に手を置いた。


「なあ、ゴブスケ。……たまには、休んだらどうだ?」

 その、あまりにも無防備な優しさに、俺は言葉を詰まらせた。


 否定しようとして、声が出なかった。本当はずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。

 カシムは、俺の様子を見て、にやりと悪戯っぽく笑った。


「そうだ。いいことを思いついた。旅に出ようぜ。俺たち三人で」


「旅……?」


「ああ。俺たちの、あの長い旅路を支えてくれた人たちに、礼を言いに行くんだ。セラフィナだって、師匠のヴァレリウス様に、積もる話があんだろ?」


「それに、お前には……一番帰らなきゃなんねえ場所が、あるんだろ?」

 その言葉に、胸が詰まった。


 森の匂い。バルトさんの厳しい顔。そして、アンナの笑顔。

 ずっと蓋をしてきた望郷の念が、溢れ出してくる。


「……馬鹿げた提案ですね」

 セラフィナが、ふん、と鼻を鳴らした。


「私には視察官としての、あなたには大使としての、そして彼には調停役としての、それぞれの職務があります。無計画な感傷旅行など、許可されるはずが……」


「いいじゃないか」

 カシムは食い下がる。


「これも、平和になった世界を視察し、各地の有力者と連携を深めるための、重要な『外交公務』ってことにすりゃあな。書類なんざ、俺がいくらでもでっち上げてやるよ」

 セラフィナは、しばらく黙ってカシムを睨んでいた。


 だが、やがて、ふっと小さく息を吐くと、呆れたように、しかしどこか楽しげに口元を緩めた。


「……ヴァレリウス様からの正式な許可と、詳細な旅程報告書の提出を義務付けるという条件付きで、検討してあげます」

 俺は、二人の顔を交互に見つめた。


 旅。

 俺が、忘れていたもの。


 エリアス先生。バリン師。そして……アンナ。

 脳裏に、懐かしい顔ぶれが次々と浮かび上がる。


 そうだ。俺は、世界を救うことに必死で、まだ、誰にも本当の「ありがとう」を言えていなかった。


「……行く」

 俺は、立ち上がった。久しぶりに、体が軽い気がした。

 俺は、最高の仲間たちに向かって、はっきりと答えた。


「行こう。みんなに、会いに行こう」



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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