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第90話:和平への第一歩


 朝日が、地平線の彼方を、わずかに白ませ始めていた。夜明けの薄明かりの中、俺の、最後の戦いが始まる。


 剣も魔法も使わない。ただ、「言葉」だけを武器にした、最も困難で、絶望的な戦いが。

 一歩、また一歩と、人間の軍勢が構える銀色の壁へと向かって歩く。


 背後からは、仲間たちの息を殺すような気配。前方からは、数千の兵士たちが放つ剥き出しの殺意。

 世界中の憎しみを、この小さな体一つで受け止めているような重圧がのしかかる。


「――全軍、攻撃待て!」

 人間の陣営から、鋼が擦れる音と共に、厳かで、揺るぎない声が響き渡った。


 騎士たちの盾の壁が、左右に開かれる。その中央から、一人の男が進み出てきた。


 他の騎士のような、華美な装飾の鎧ではない。歴戦の傷跡が無数に刻まれた、実戦的な鋼の鎧。その肩には、色褪せながらも誇り高く輝く、白き獅子の紋章。かつて王国最強と謳われた、「白獅子騎士団」の紋章だ。


 男は、兜を脱いだ。

 その、厳しい顔つき。頬に刻まれた、古い傷跡。

 見間違えるはずがない。


 アンナの父親、バルトさんだった。


 だが、彼はもう、辺境の村の猟師長ではなかった。その双眸には、何千という命を預かる指揮官としての重圧と、非情な決断を下す覚悟が宿っていた。


「……お前は」

 彼の声は、怒りよりも、目の前のありえない光景に対する、深い困惑に震えていた。


「森の……あの時の、化け物……!」

 彼は、一目で俺がゴブリンであることを見抜いていた。だが同時に、俺がかつて、彼の娘アンナを、別のゴブリンから命懸けで守ろうとしたあの光景も、その目に焼き付いているはずだ。


「将軍! 魔物が近づいてきます! ご命令を!」

 側近の騎士が、殺気立って叫ぶ。

 だが、バルトさんは動かなかった。彼の剣は鞘に収まったままだ。


 その時だった。

「――彼の声を、届けて」

 背後から、セラフィナの静かな詠唱が聞こえる。


 風の精霊が俺の声を包み込み、増幅させていく。バルトさんへ、そして人間軍全体へ、俺の魂の叫びを届けるために。

「バルト司令官!」

 俺は、腹の底から叫んだ。


「俺は、戦うために来たのではない! 話がしたい!」


「話だと?」

 バルトさんは、腰の剣の柄を強く握りしめたまま、苦々しげに顔を歪めた。


「ゴブリンと、何を話すことがある。貴様らの王が、我らの村々を焼き、民を殺している! それが全てだ! 言葉など、欺瞞に過ぎん!」


「違う!」

 俺は、背後の、ゴブリンの「壁」を指差した。


「彼らを見ろ! 彼らは、お前たちが思っているような、血に飢えた怪物ではない! 無理やり戦場に立たされた、犠牲者だ!」


「犠牲者だと? 戯言を! 娘を人質に取ろうとした、あの時の貴様と同じか!」


「あれは誤解だ! 俺はアンナを守ろうと……! そして、今も同じだ! 彼らを殺して、何になる!? それは戦ではない! ただの、虐殺だ!」

 俺の悲痛な叫びに、バルトさんの腕がわずかに揺らいだ。


 彼の脳裏に、森での光景が鮮明に蘇っているに違いない。娘を庇う俺の姿。そして、娘が涙ながらに訴えた言葉。「ゴブスケは、私を助けてくれたの!」


 あの時、彼は俺を見逃した。その決断が、今、再び彼の中で問いかけられている。


「お待ちください、司令官殿!」

 その、氷のように澄んだ凛とした声に、バルトさんの視線が、俺の隣へと移った。


 セラフィナが、いつの間にか、俺の隣に並び立っていた。

 彼女は、宮廷魔術師長ヴァレリウスの紋章が刻まれた杖を、バルトさんに高々と示して見せた。


「私は、セラフィナ・フォン・リヒトベルク。師ヴァレリウスの代理として、この場にいます」

「ヴァレリウス卿の……? なぜ、貴女が魔物を庇う!」


「彼は、ただのゴブリンではありません。師が、その存在と知性を認めた王宮の保護対象、……そして私の弟弟子です。彼の言葉は、決して偽りではないと、我が師の名誉にかけて、私が保証いたします」

 セラフィナの、一歩も引かぬ毅然とした宣言。王国の最高権威の後ろ盾が、バルトの判断を揺さぶる。


「そういうことだ、旦那!」

 カシムも、ニヤリと笑って俺の隣に駆け寄る。


 彼は懐から、一本の小さな苗木を取り出した。その葉は、月光のように青白く輝き、神聖な魔力を放っている。


「俺はカシム! こいつの相棒だ! 俺はエルフの里の大長老から、こいつを預かってきた! エルフに認められた人間がいる。その男が、命を賭けてゴブリンを守っている。それでも、あんたたちはこいつを害獣と呼ぶのかい?」

 バルトさんの目が、驚愕に見開かれた。エルフの神木の苗木。その意味を、長く騎士団長を務めた彼が知らないはずがない。 


 種族を超えた信頼の証が、ここにある。

 そして。


 俺たちの後ろで、族長が、動いた。

 彼は、錆びた石斧を、ゆっくりと地面に突き立てた。


 生き残った氏族の者たちにも、ゴブリンの言葉で静かに命じる。

「(――武器を、捨てろ)」

 その命令に、氏族のゴブリンたちが、ためらいながらも、次々と粗末な武器を地面に置いた。


 カラン、コロン……。乾いた音が戦場に響く。

 それは、完全な、無抵抗の意思表示だった。 


 バルトさんは、言葉を失っていた。

 流暢に喋るゴブリン。それを庇う、ヴァレリウス卿の愛弟子。エルフの信頼を得た人間。そして、武器を捨てて恭順する、ゴブリンの一団。


 彼の、何十年という戦の経験の、そのどれにも当てはまらない、ありえない光景。

 だが、そこには確かな「意志」があった。殺し合いを拒絶する、強い意志が。


 俺は、最後の言葉を、彼に投げかけた。

「頼む。俺を信じろとは言わない。だが、アンナが、この光景を見たら、何と言うか……考えてみてくれ」

「……この戦いを、終わらせる道が、あるはずだ」

 バルトさんは、長く、黙っていた。


 その沈黙は、永遠のように感じられた。

 やがて、彼は剣の柄から手を離すと、天を仰いで、深く、長い溜息をついた。


「……分かった」

 その声は、苦々しさに満ちていたが、殺気は消えていた。


「……停戦だ。だが、撤退はせん。貴様が、ゴブリンの王とやらを、この場に連れてこい。話は、それからだ」

 俺は、その言葉に、深く頭を下げた。


 そして、ゴブリンの軍勢へと、向き直る。

 丘の上には、全てのやり取りを静観していた、漆黒の王がいる。

 俺は、ゴブリンの言葉で、叫んだ。


「(聞いたか、ゴブリンキング! 人間は、話を聞くと言っている! 武器を収めた! これが、俺の示した『道』だ!)」

 ゴブリンの軍勢が、ざわめく。


 やがて、その中から、再び、あの黒い魔力をまとった王が、音もなく姿を現した。

 彼は、俺と、武器を下ろしたバルトさんを、交互に見比べた。


 彼の心の内は、仮面の奥で見えない。だが、その佇まいからは、単なる怒りではない、別の感情が読み取れた。


 目の前で、人間の軍勢が攻撃を止めた。自分の言葉ではなく、あの小僧の言葉で。

 人間とゴブリンが、あの小僧を守るために、共に立っている。


 そして、ゴブリンの一部が、武器を捨てて恭順の意を示している。

 力と恐怖だけが支配するはずの戦場で、自分の知らないルールで、盤面が動いている。この小僧は、一体何者なのだ?


 その知的好奇心と、理解不能な「新しい力」への警戒心が、彼の即時攻撃という選択を、わずかに躊躇させた。

 彼は、仮面の奥で、静かに呟いた。


「(……よかろう)」


 ゴブスケの仲介のもと、人間軍の司令官とゴブリンキングは、歴史上初めて、交渉の席に着くことを承諾した。


 それは決して簡単な道のりではない。互いの不信と憎悪は、そう簡単に消えはしない。

 だが、戦場の中心で生まれた小さな信頼の芽は、確かに未来への希望を育み始めていた。


 ゴブスケは、セラフィナとカシム、そして彼を認めた族長と共に、その困難な仕事に取り組むために歩き出した。


 朝日が、彼の小さな背中を照らす。

 その顔には、もう迷いはなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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