第89話:架け橋の言葉
カッ!
視界の全てが、純白に塗り潰された。
俺が突き立てた杖から解き放たれたのは、破壊の炎でも、凍てつく氷でもない。ただ純粋で、圧倒的な密度の「魔力の光」だった。
それは、戦場という戦場を飲み込み、血の赤も、鉄の黒も、全てを白一色へと漂白していく。
精鋭部隊の振り下ろした斧も、氏族たちの突き出した槍も、人間の騎士たちが構えた剣も。
あらゆる暴力が、温かく、しかし抗い難い光の圧力によって、強制的に押し留められた。
数秒の後、光が粒子となって霧散していく。
後に残されたのは、奇妙な静寂だった。
誰もが目を白黒させ、振り上げた武器を下ろすタイミングを見失い、ただ呆然と立ち尽くしている。
思考の空白。
殺意の停止。
この一瞬の「凪」こそが、俺が全魔力を賭して作り出した、最初で最後の好機。
今しかない。
俺は杖から手を離すと、震える膝を叩き、一歩前へと踏み出した。
まずは、人間の軍勢に向き直る。
喉の奥から血を吐くような思いで、知っている限りの人間の言葉を紡ぐ。
「聞け! 人間の兵士たちよ! 俺はゴブスケ! 人間ではない! ゴブリンだ!」
静まり返った戦場に、俺の声だけが響き渡る。兵士たちの間に、どよめきが走った。言葉を話すゴブリンへの驚愕と、戸惑い。
「だが、俺はお前たちの敵ではない! この戦いは、間違いだ!」
俺は、俺を守るために傷つき、血を流している族長たちを指差した。
「彼らを見ろ! 彼らは、お前たちを殺したかったわけじゃない! ただ、家族を守りたかっただけだ! それが、ゴブリンキングという、たった一匹の野心のために、無理やりこの死地へと連れてこられた!」
「彼らは今、人間の味方である俺を、命懸けで守ってくれた! これが、ただの『害獣』のすることか!?」
次に、俺はくるりと背を向け、ゴブリンの軍勢へと対峙した。
言語を切り替える。俺の魂の根源にある、母なる言葉で吠えた。
「(聞け、ゴブリンたちよ! お前たちは、何のために戦う! 王のためか!? 恐怖のためか!?)」
俺は、背後で杖を構えるセラフィナと、肩で息をするカシムを指差した。
「(この人間たちを見ろ! 彼らは、俺を殺そうとしなかった! 俺を、仲間として守ってくれた! 全ての人間が、お前たちの敵なわけじゃない! 目を覚ませ!)」
二つの言葉。二つの叫び。
右には人間の理性を。左にはゴブリンの本能を。
それは、この戦場にいる数万の兵の中で、いや、この世界で唯一「二つの世界」を知る俺にしかできない芸当。
俺の言葉は、硬直していた両軍の兵士たちの心に、疑念という名の楔を打ち込んだ。
目の前の相手は、本当に殺すべき敵なのか?
この戦いは、本当に正しいのか?
だが、その静寂は、一人の怒号によって破られた。
「(小賢しい真似を! 惑わされるなァッ!)」
精鋭部隊の隊長が、呪縛を振り払うように咆哮し、再び族長へと襲いかかろうとした。
巨大な斧が振り上げられる。
だが、その刃が振り下ろされることは、二度となかった。
突如、戦場の空気が凍りついた。
隊長の動きが、まるで糸の切れた操り人形のように、ぴたりと止まる。
そして、ゴブリンたちの黒い波が、何も言われていないにも関わらず、恐怖に震えながら左右へと分かれていった。
モーゼの海割りのように開かれた、その道。
その奥から、深淵のような闇を纏い、一匹のゴブリンが、音もなく歩いてきた。
その姿は、異様だった。
他のゴブリンのような、屈強な筋肉はない。むしろ、病的なまでの痩身。
だが、その体からは、他の何万というゴブリンの殺意を束ねても敵わないほどの、圧倒的で、底知れない魔力が、黒い陽炎のように立ち上っていた。
顔には、正体不明の古い骨でできた仮面。
彼こそが、全ての元凶にして頂点。ゴブリンキング。
彼は、血を流す族長にも、杖を向けるセラフィナにも、一瞥もくれなかった。
ただ、まっすぐに、俺だけを見ている。
そして、仮面の奥から、地を這うような、しかし、不思議なほど知的な響きを持つ声が、ゴブリンの言葉で紡がれた。
「(……止まれ)」
たった一言。
魔術ですらないその言葉で、暴走しかけていた精鋭部隊を含む、全てのゴブリンが彫像のように硬直した。
「(……面白い芸を見せてもらった)」
ゴブリンキングは、俺の目の前、数メートルの距離で足を止める。
「(人間の言葉を操り、人間の魔術師を従える。そして、我らに牙を剥くよう、愚かな同族を唆す)」
彼の声に、怒りはなかった。あるのは、冷徹な観察者の好奇心だけ。
「(……答えよ。お前は、ゴブリンなのか?)」
仮面の奥の、暗い穴が、俺の魂の芯を覗き込むように問いかける。
「(なぜ、人間を助ける)」
戦場の全ての視線が、俺と王の二人に注がれていた。
風の音さえ消えた世界で、俺は杖を強く握りしめた。
震えるな。怯むな。
これが、俺の戦いだ。
「(俺は、ゴブスケだ)」
ゴブリンの言葉で、はっきりと答える。
「(ゴブリンだ。だが、お前のような王は、知らない)」
「(人間を助けているのではない。仲間を、守っているだけだ)」
俺の答えに、ゴブリンキングは、喉の奥で、くつくつと笑った。
その乾いた笑い声は、戦場にいる全ての者の肌を粟立たせた。
「(仲間、だと? 人間が? 我らを裏切った、あの愚かな氏族が?)」
「(……そうだ)」
「(滑稽だな)」
ゴブリンキングは、ゆっくりと、人間たちの軍勢を見渡した。
「(小僧。お前には見えぬのか。あの鉄の塊どもが、我らをどのような目で見ているかを。畑のネズミを、葉についた虫けらを見るのと同じ目だ。奴らは我らを狩る。食うためではない。ただ、そこに生きているというだけで、我らを殺す。それが、何百年と続いてきた、変えられぬ真実だ)」
彼の言葉には、単なる憎しみを超えた、深く、重い歴史の絶望が込められていた。
「(我は、この連鎖を断ち切ると決めた。恐怖には恐怖を。暴力には暴力を。力によってのみ、我らの尊厳を、生存する権利を、奴らに認めさせるのだ。この戦争は、我らゴブリンが生き残るための、聖戦だ!)」
王の叫びに呼応し、後方のゴブリン軍勢から、地響きのような唸り声が沸き起こった。それは、彼らが長年抱えてきた怨嗟の声でもあった。
「(違う!)」
俺は、王の放つ絶望的な圧力を、声で押し返した。
「(お前のやり方では、何も守れない! 憎しみが増えるだけだ! もっと多くの同族が、死ぬだけだ!)」
俺は、セラフィナとカシムを指差した。
「(見ろ! 人間の中にも、話を聞く者はいる! 分かり合える者はいる! 道はあるはずだ!)」
「(道だと?)」
ゴブリンキングは、俺を嘲笑った。
「(夢想家の小僧め。そのありもしない道を、お前は示せるのか?)」
「(……示してみせる。だから、戦いをやめろ!)」
ゴブリンキングは、しばらく沈黙した。
仮面の奥の瞳が、俺を値踏みするように細められる。
やがて、彼は静かに言った。
「(……よかろう。ならば、この場で示せ)」
彼は踵を返し、自軍の陣営へとゆっくりと歩き始めた。
そして、一度だけ振り返ると、仮面の奥から、最後の言葉を放った。
「(……今すぐ、お前の言う『道』とやらで、あの人間どもを撤退させてみせろ。……できなければ、お前のその甘い理想ごと、我が軍勢が全てを踏み潰してくれるわ)」
それは、交渉ではなかった。
絶対強者からの、一方的な宣告。
俺の小さな肩に、数万の命と、二つの種族の未来という、あまりにも重い天秤が乗せられた瞬間だった。
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