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第86話:双方の殺意

 

 両軍から、息を呑む音が、一つの巨大な波となって、平原を揺らした。

 ありえない。

 信じられない。

 人間の子供が、目の前で、ゴブリンに変わった。


 静寂。

 死よりも深い静寂が、戦場を支配する。

 全ての視線が、全ての憎悪が、全ての恐怖が、ただ、俺一人へと、注がれていた。


 その静寂を、最初に破ったのは、二つの、異なる言語で発せられた、同じ意味の命令だった。


「――撃てェッ!」


 人間の軍勢を率いる、白銀の鎧をまとった指揮官が、天に向かって剣を突き上げ、叫んだ。

 彼の顔は、理解不能な現象への恐怖と、それを排除せねばならぬという軍人としての使命感で、青ざめていた。


「あれは、ゴブリンではない! 人間に化け、我らを欺こうとした、未知の魔物だ! この戦の吉兆を乱す不浄の存在め! 一斉掃射! 塵も残すな!」

 その号令に、一瞬ためらっていた弓兵たちが、再び弓を引き絞る。魔術師たちが中断していた詠唱を再開し、頭上の火球が、さらに数を増し、大きく膨れ上がった。


「(――殺せェッ!)」


 ほぼ同時に、ゴブリンの軍勢の後方、巨大な戦旗が立つ丘の上から、地を這うような、威厳に満ちた声が響き渡った。


 ゴブリンキング。

 その姿は見えない。だが、その声だけで、何万というゴブリンの軍勢を震え上がらせる、絶対的な支配者の咆哮。


「(あの裏切り者め! 人間と通じ、我らを惑わす魔術を使う、忌むべき存在! 我が軍の最初の贄として、その汚れた血を大地に捧げよ!)」

 王の命令は、絶対だった。 


 恐怖で足をすくませていた最前列のゴブリンたちも、王の怒りに触れることを恐れ、武器を構え直す。後方の、屈強なゴブリンたちが、雄叫びを上げながら、俺に向かって駆け出す準備を始めた。


 二つの種族。二つの軍勢。

 つい先ほどまで、互いに向けていた殺意の全てが、今、たった一匹のゴブリンへと、その向きを変えた。


 俺は、裏切り者になった。

 俺は、魔物になった。

 人間からも、ゴブリンからも、等しく排除されるべき、異物。


『……そうか』

 これが、答えか。 


 ヴァレリウス様の最後の言葉が、脳裏に蘇る。

『その姿は、君にとって、ゴブリンであること以上に、重い枷となるやもしれんぞ』

 枷。

 その言葉の意味を、今、この骨身に染みる孤独の中で、理解した。


 人間とゴブリン、二つの姿を持つ俺は、どちらの世界にも属せない。ただ、双方から拒絶されるだけの、寄る辺なき存在。


 ヒュウッ、と風を切る音がした。

 人間の弓兵隊が放った、最初の矢の群れ。

 黒い雨となって、空を覆い尽くす。


 同時に、魔術師たちが放った火球が、尾を引きながら、俺へと殺到する。


 杖を構える。

『シールド!』

 俺の周囲に、青白い光の障壁が展開された。


 だが、数が多すぎる。

 カン、カン、カン! と、矢が障壁に突き刺さり、火花を散らす。

 ドゴンッ! と、火球が着弾し、障壁全体が大きく揺らめいた。


 一撃、一撃が、重い。障壁を維持するだけで、マナがごっそりと奪われていく。


「(死ね、裏切り者!)」

 その隙を突き、ゴブリンの戦士たちが、大地を蹴って肉薄してきた。

 錆びた剣が、光の障壁を叩く。石斧が、火花を散らす。


 内側から、外側から。

 両方向からの攻撃に、障壁が、メキメキと音を立ててひび割れていく。


『……くっ!』


 このままでは、破られる。時間の問題だ。

 何か、手を打たなければ。

 だが、どうやって?


 どちらか一方を攻撃すれば、もう一方からの攻撃に、無防備な背中を晒すことになる。

 完全に、詰んでいた。


 これが、俺の旅の、結末なのか。

 アンナの笑顔が、脳裏をよぎる。

 カシムの、悪態をつきながらも、どこか楽しそうな顔が浮かぶ。

 エリアス先生の、ぶっきらぼうな横顔。バリン師の、頑固だが、誇り高い背中。

 セラフィナの、悔しそうな顔。ヴァレリウス様の、全てを見透かすような瞳。


『……まだ、死ねない』


 俺は、歯を食いしばった。

 マナの結晶が熱く輝く。


 最後の力を振り絞り、障壁の出力を最大にした。光が眩いばかりに輝き、周囲のゴブリンたちを吹き飛ばす。


 だが、それも、ほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。

 人間の軍勢から、第二射、第三射の矢の雨が、間断なく降り注ぐ。

 魔術師たちの、次の詠唱が始まっている。


 もう、なすすべはなかった。

 ひび割れた障壁の向こうに、絶望的な数の、敵の姿が見える。

 俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、全ての終わりを、覚悟した。


 その、全てが砕け散るはずだった、瞬間。

 世界が、白く染まった。


 いや、違う。


 俺の頭上を、巨大な氷の壁が、覆い尽くしたのだ。

 矢が、氷壁に突き刺さり、砕け散る。

 火球が、氷壁に激突し、水蒸気の爆発を起こして消滅した。

 完璧な、絶対零度の防御魔法。


 そして、大地が、轟音と共に、裂けた。

 俺を取り囲んでいたゴブリンたちの足元から、無数の、巨大な茨が、天を突く槍のように突き出す。

 茨は、ゴブリンたちの体を絡め取り、その動きを完全に封じた。


「(グギャアアッ!?)」

 ゴブリンたちの、苦痛と混乱に満ちた悲鳴が響き渡る。


 何が、起きた?

 呆然と顔を上げる。

 俺の右側に、いつの間にか、一人の女が立っていた。


 白銀の装飾が施された、完璧なローブ。その手には、氷の輝きを放つ杖が握られている。

 その横顔は、氷のように冷たく、そして、美しかった。


「……セラフィナ」


 そして、左側。

 大地から生えた茨の中心で、一人の男が、不敵な笑みを浮かべていた。

 その手には、神木の分け御霊である苗木が握られ、緑の光を放っている。


「よう、相棒。少し、派手に遅れちまったみてえだな」


 カシム。

 セラフィナ。

 ありえない。

 なぜ、二人が、ここに。


 俺は、ただ、呆然と、その二つの奇跡を、見つめることしかできなかった。

 絶望の闇の中に、二筋の光が差し込んだ、その瞬間を。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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