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第85話:架け橋の覚悟

 

 人間の軍勢から、甲高い角笛の音が響き渡った。

 総攻撃の合図だ。

 数秒後、あの絶望の壁に向かって、死の雨が降り注ぐだろう。


『……俺が、やらなければ』


 もう、迷いはなかった。

 杖を握る。

 先端のマナの結晶が、俺の覚悟に応えるように、これまでで最も強く、そして、悲しいほどの青白い光を放った。


 今、行く。

 二つの巨大な殺意の、その真ん中へ。


 この姿ではダメだ。

 ゴブリンが一人、丘を駆け下りたところで、無数の矢の一本がその心臓を貫いて終わるだけだ。


 俺は、一度目を閉じた。

 ヴァレリウス様の執務室の鏡に映った、あの見知らぬ少年。

『スケ』の姿。


 体が、内側から熱を帯びる。骨が軋み、肉が組み変わる感覚。もはや苦痛はない。ただ、あるべき形へと、水が器に収まるように変化していくだけ。


 緑の肌は色を失い、尖っていた耳は丸みを帯びる。背丈がわずかに伸び、手足がしなやかさを増した。


 目を開ける。

 手を見下ろす。人間の少年の手。

 セラフィナがくれた、上質な旅人のローブが、その体を包んでいた。


 よし。

 足が震える。心臓が、肋骨を内側から叩き壊そうとしている。

 だが、一歩、また一歩と、丘の斜面を駆け下り、死地へと踏み出した。


 最初に、変化に気づいたのは人間の軍勢だった。

 丘の上から、子供が一人、駆けてくる。

 そのありえない光景に、最前列の騎士たちの間に、困惑が広がった。


「待て! 撃つな!」

「子供だ! なぜ、あんな場所に!」

「伝令か? いや、丸腰だぞ!」

 指揮官たちの怒声が飛ぶ。引き絞られていた弓が、わずかに緩んだ。魔術師たちの詠唱が、一瞬だけ乱れる。


 全ての視線が、戦場を駆ける、たった一つの小さな点に注がれていた。


 ゴブリンの軍勢も、その異常事態に気づいた。

 奴らの雄叫びが、戸惑いの唸り声に変わっていく。

 最前列の壁。俺の氏族。


 彼らは、目の前の人間たちが攻撃の手を緩めたことに気づき、そして、その視線の先にいる俺の姿を認めた。


 人間の子供が、一人、こちらへ向かってくる。

 それは、彼らのちっぽけな理解力を、完全に超えていた。


 恐怖に引きつっていた顔が、ただ、呆然と、俺を見つめている。

 族長の口が、半開きのままになっているのが、遠目にも分かった。


 走るのをやめた。

 歩く。

 二つの軍勢の、ちょうど真ん中。

 どちらからも等しい距離にある、血塗られた無人の荒野。

 その中心で、足を止めた。


 風が、血の匂いを運んでくる。

 世界の音が、消えた。

 角笛の音も、太鼓の音も、人々の囁きも、ゴブリンの唸り声も、全てが止んだ。


 風の音と、俺自身の心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響いている。

 何万という殺意の視線が、俺という一点に、針のように突き刺さっていた。


 ゆっくりと顔を上げる。

 まず、人間の軍勢を見た。

 鎧の隙間から覗く瞳。そこにあるのは、困惑と、疑念と、そして変わらない憎悪。


 次に、ゴブリンの軍勢を見た。

 恐怖と、飢えと、そして、理解不能なものへの、原始的な畏れ。


 どちらの目にも、俺という個の姿は映っていない。

 人間は、俺を「謎の子供」として見ている。

 ゴブリンは、俺を「奇妙な人間」として見ている。

 どちらも、違う。


『……見せなければ』


 俺が、何者であるかを。

 この戦いが、どれほど滑稽で、悲しい間違いであるかを。

 そのために、ここに来たのだから。


 両手を、ゆっくりと広げた。

 武器を持っていないこと、敵意がないことを、示すために。

 そして、この戦場にいる、全ての者が見守る中で。

 自ら、仮面を脱いだ。


 変異魔法を、解く。

 今度は、何かを願わない。何かに成ろうとしない。

 ただ、俺自身の、ありのままの姿へと、還る。


 人間の少年の輪郭が、陽炎のように揺らめいた。

 温かい光が、体を包む。

 背が、わずかに縮む。


 丸かった耳の先が、夜空に向かって、鋭く尖っていく。

 肌の色が、失われた緑を取り戻していく。


 それは、ほんの数秒の出来事。

 だが、その場にいた者たちにとっては、永遠のように長い時間だっただろう。


 光が、収まる。

 そこに立っていたのは、もう、人間の少年ではない。古びた丸眼鏡をかけた、一匹のゴブリン。

 俺だった。


 両軍から、息を呑む音が、一つの巨大な波となって、平原を揺らした。


 ありえない。

 信じられない。

 人間の子供が、目の前で、ゴブリンに変わった。


「な……なんだ、あれは……?」

 人間の騎士の一人が、震える声で呟いた。

「化け物だ! 人間に化ける魔物だぞ!」

「罠だ! やはり、あれは罠だったんだ!」

 憎悪と恐怖が、困惑を塗りつぶしていく。魔術師たちの詠唱が、今度は明確な殺意を持って再開されようとしていた。


 ゴブリンの陣営も、混沌の渦に叩き込まれていた。

「(グルアッ!? 人間じゃなかったのか!?)」

「(なんだあの姿は! 我らの同族か!?)」

「(人間の魔法を使う裏切り者だ! 殺せ!)」

 恐怖と猜疑が、雄叫びとなって迸る。後方の親衛隊から、数匹が俺に向かって武器を構え直した。


 その、絶対的な事実だけが、全ての者の思考を、完全に停止させた。


 静寂。

 死よりも深い静寂が、戦場を支配する。

 全ての視線が、全ての憎悪が、全ての恐怖が、ただ、俺一人へと、注がれていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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