第84話:恐怖の壁
西へ。
戦の匂いがする方角へ、ただひたすらに駆けた。
かつての旅とは違う。森の恵みを探す余裕も、星空を見上げる時間もない。眠りは浅く、口にするのは干し肉と、革袋に残ったなけなしの水だけ。夜も昼も、足を止めることはなかった。
焦りが、俺を突き動かしていた。
世界が、知らない場所で壊れていく。その速度に、追いつかなければならない。
景色が変わっていく。
焼き払われた村の残骸が、黒い骸骨のように点在する。道端には、家財を積んだ荷車を捨て、王都の方角へ逃げていく人々の列があった。その中に、鎧を脱ぎ捨て、敗走してきたのであろう兵士たちの姿も混じっている。
茂みに身を潜め、彼らの会話の断片に耳を澄ます。
「もう終わりだ……東部戦線は総崩れだ……」
「だが、本隊が到着したらしい! あの”白獅子”閣下が、自ら指揮を執ると!」
「本当か!? 辺境で隠居していた、あの伝説の騎士団長が!? ゴブリン殺しの”白獅子”が戻ってこられたのなら、まだ望みはある!」
『白獅子……?』
兵士たちの声には、絶望の中の、唯一の希望にすがるような響きがあった。これから俺が対峙しなければならない人間のトップが、ただの指揮官ではない、歴戦の英雄であることを知る。
数日が過ぎた。
空気の匂いが、変わった。
煙の匂い。血の匂い。汗と恐怖が蒸発した匂い。そして、鉄の匂い。
大地が、震えている。遠くで鳴り響く、無数の太鼓の音と、地鳴りのような雄叫びが、腹の底に響いた。
戦場は、近い。
小高い丘の稜線に身を伏せ、眼下を見下ろす。
そして、息を呑んだ。
目の前に広がるのは、地獄だった。
どこまでも続く平原が、二つの巨大な軍勢で埋め尽くされている。
片方は、人間の軍勢。
磨き上げられた鋼の鎧が、鈍い太陽の光を反射して、銀色の波のようにうねっている。整然と並ぶ槍の穂先が、巨大な獣の牙のように空を向く。
後方には、王家の獅子の紋章や、名門貴族の鷲の紋章が描かれた色とりどりの旗がはためき、その下に魔術師の一団と、弓兵の部隊が控えていた。統率された、完璧な死の機械。
そして、その反対側。
黒い津波。ゴブリンの大軍勢だった。
数など分からない。一万か、それ以上か。統率などない。
本能のままに武器を振り回し、意味もなく雄叫びを上げる、混沌の塊。獣の皮をなめしただけの粗末な旗が、無秩序に揺れている。その暴力的な熱気だけで、こちらの空気が歪むようだった。
『……これが、戦争』
そのあまりの規模に、ただ圧倒されていた。
知っている争いとは、何もかもが違う。森の中の、小競り合いではない。種族の存亡を賭けた、巨大な殺意の応酬。
視線が、ゴブリンの軍勢の中を彷徨う。
ゴブリンキングは、どこだ。この狂気を操る王は、どこにいる。
だが、俺の目は、軍勢の最前列に釘付けになった。
そこは、明らかに異質だった。
後方の、屈強なゴブリンたちが持つような、鉄の剣や斧ではない。
彼らが手にしているのは、石斧や、先端を尖らせただけの木の棒。ボロボロの腰布を巻いただけの、貧相なゴブリンたち。
恐怖に顔を引きつらせ、ただ、後方からの圧力に押されるように、その場に立っている。
戦士ではない。
それは、盾だった。
人間の軍勢からの、最初の突撃をその身で受け止め、時間を稼ぐためだけの、使い捨ての肉壁。
その絶望的な壁の中に、ひときわ大きな影を見つけた。見間違えるはずがない。
あの、岩塊のような体躯。肩に残る、古い傷跡。
族長だった。
かつて、俺を「裏切り者」と呼び、故郷の森から追い出した、憎むべき相手。今、彼の顔に、かつての尊大な光はなかった。
その濁った目は、ただ虚ろに、眼前に迫る人間の軍勢と、背後で鬨の声を上げるゴブリンキングの親衛隊とを、交互に見比べている。
恐怖と、絶望。そして、なぜ自分たちがここにいるのか理解できない、というような、子供のような戸惑い。巨大な歯車に巻き込まれた、無力な犠牲者の一人に過ぎなかった。
すぐ隣の茂み。
そこにいたのは、腹を空かせた子供のゴブリンだった。俺がいた頃には、まだ生まれていなかったかもしれない。彼は、震える手で、母親らしきゴブリンの腰布を、必死に握りしめている。
母親は、その子を庇うように、ただ、小さく体を丸めていた。
『……ああ』
何かが、音を立てて砕けた。
憎しみなど、どこかへ消えていた。
彼らは、俺が憎んだ同族ではない。
ただ、死を待つだけの、哀れな生き物だ。
俺の氏族。
人間の軍勢から、甲高い角笛の音が響き渡った。
総攻撃の合図だ。
弓兵たちが、一斉に矢をつがえる。何千もの弦が引き絞られる、死の前の静かな音が重なり、一つの巨大な軋みとなって聞こえる。
魔術師たちが、杖を天に掲げ、詠唱を始めた。彼らの頭上に、いくつもの灼熱の火球が生まれ、その数を増やしていく。大気が震え、魔力が渦を巻くのが肌で分かった。
数秒後、あの絶望の壁に向かって、死の雨が降り注ぐだろう。
族長の、虚ろな目が、ふと、こちらを向いた気がした。
ほんの一瞬、俺と、目が合ったように感じた。
その瞳に映ったのは、懇願の色。
助けてくれ、と。
その声なき声が、俺の心臓を、鷲掴みにした。
『……俺が、やらなければ』
もう、迷いはなかった。
人間になるのでも、ゴブリンを超えるのでもない。
ただ、目の前の、無意味な死を止める。
それだけが、今、ここにいる理由だ。
丘の稜線に、ゆっくりと立ち上がった。
眼下には、まさに開かれようとしている、地獄の釜。
杖を握る。
先端のマナの結晶が、俺の覚悟に応えるように、これまでで最も強く、そして、悲しいほどの青白い光を放った。
今、行く。
二つの巨大な殺意の、その真ん中へ。
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