第83話:集う仲間たち
王都シルバーストリームは、鉄の匂いがした。
普段は香油と焼き立てのパンの香りで満ちている白亜の街路に、武具が擦れる音と、早馬が立てる蹄の音が響き渡る。
ゴブリンキングと名乗る存在が率いる大軍勢が、王国の東部辺境を蹂躙しているという報は、瞬く間に都の心臓部まで達していた。
宮廷魔術師ギルド。その最上階にあるヴァレリウスの執務室は、外界の喧騒が嘘のような静寂に保たれている。
彼は、巨大な天球儀の前に立ち、東部戦線の状況が刻々と更新される魔法の地図を、感情のない瞳で見下ろしていた。赤い光点で示されたゴブリンの軍勢が、じわじわと王国の領土を侵食していく。
「ゴブリンキング、か」
ヴァレリウスは、独り言のように呟いた。
その声に、戦乱を憂う響きはない。ただ、完璧に計算され、美しく配置されたチェスの盤面に、ルールを知らない子供が泥のついた手で触れたかのような、静かな不快感が滲んでいた。
彼の脳裏に浮かぶのは、一匹のゴブリンの顔。
エリアスが送り込んできた、予測不能な変数。彼の完璧な世界に投げ込まれた、矛盾の塊。
あのゴブスケが、この盤上でどう動くのか。それは、ヴァレリウスにとって、この戦争そのものよりも、遥かに興味深い観測対象だった。だが、このゴブリンキングという野蛮な力は、その稀有な弟子を、観測が終わる前に破壊しかねない。
『……それは、許容できない』
あの老いぼれ(エリアス)が寄越した、面倒で、それでいて底の知れない弟子。
このような戦争で無様に死なれては、師である私の沽券に関わる。ヴァレリウスは、静かに結論を下した。
背後の書斎で報告書の作成に没頭していた一番弟子に、声をかけた。
「セラフィナ」
「はっ」
声に、セラフィナはインクの染みのない指先を止め、反射的に立ち上がった。
「東部戦線へ向かいなさい」
その言葉に、セラフィナは息を呑んだ。ついに、師が動く。
その先陣を任されるのだ。武者震いが、その背筋を駆け上がった。
「目的は、ゴブリンの殲滅ではありません」
だが、続いた言葉は、彼女の昂りを冷ますには、十分すぎるほど冷徹だった。
「君の任務は、戦況の分析と報告。そして、ゴブリンキングという存在の、魔術的資質の鑑定です」
「……師よ。それは、私が戦うことを、お許しいただけない、ということでしょうか」
「君の魔法は、盤面をあまりに早く退屈に終わらせてしまう。それでは、データが取れません」
ヴァレリウスは、ゆっくりと振り返った。その冷たい瞳が、セラフィナを射抜く。
「ただし、一つだけ、最優先事項を与えます」
彼は、言葉を区切った。
「戦場に向かっていく、極めて特異な魔力の痕跡が観測されています。ゴブリンのものと思われる、規格外の魔力が。……私のもう一人の弟子が、貴女の弟弟子が、その渦中にいる可能性が高い」
ゴブスケ。
その名前が、セラフィナの胸をざわつかせた。
あのゴブリンは、今、どこにいる?
一人で旅立った彼は、この戦乱に巻き込まれているのではないか。
「彼の身柄を確保しなさい。状況が許さないのなら、どちらの陣営からも手出しさせないよう、無理やり保護しなさい。彼は、これからの魔法の歴史において、極めて重要な意味を持つ存在です」
師が、あのゴブリンを「弟子」と呼んだ。そして、「重要」だと。
セラフィナは、唇を噛み締めた。
それは、嫉妬とも、屈辱とも違う、もっと複雑な感情だった。
師の関心が、自分ではない何かに向いている。その事実が、彼女の完璧なプライドを、わずかに軋ませた。
「……御意」
彼女は、感情を押し殺し、完璧な淑女の礼を取って、深く頭を下げた。
師の命令は、絶対。
だが、その心の中では、別の決意が固まっていた。
あのゴブリンは、師がその価値を認めた、ただ一つの存在。
それを、ゴブリンの王などに、好きにさせてたまるか。あれを裁けるのは、師であるヴァレリウス様か、あるいは、一番弟子である、この私だけだ。
セラフィナは、その日のうちに旅の準備を整えた。
目指すは、東。
戦火が渦巻く、最前線。
表向きは、ただの観測者として。
だが、その胸には、師からの特命という熱い火種を宿して。
◇
同じ頃。
エルフの里は、外界の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。
だが、カシムは、その静寂に言いようのない焦燥を感じていた。
「どうした、カシム。顔色が優れぬな」
長老が、神木の麓で瞑想していた彼に、声をかけた。
「……いや。何でもないんだ、長老」
カシムは、無理に笑顔を作った。
ここに残り、植物魔法の修行を始めてから、季節は巡った。
彼の才能は、エルフたちの指導の下で、驚異的な速さで開花していた。
今では、神木だけでなく、里の全ての植物の声を、聞くことができる。
そして、その声が、彼に不吉なことを囁いていたのだ。
『……遠くで、森が泣いている』
『たくさんの命が、理由もなく、消えていく』
それは、エルフたちには聞こえない、もっと微かで、もっと根源的な世界の悲鳴だった。
そして、その悲鳴の中心に一つの気配を感じる。
懐かしい相棒の気配。
だが、その気配は、ひどく弱々しく今にも消えてしまいそうだった。
『ゴブスケ……!』
カシムは、修行を放り出して、長老の元へ駆け込んだ。
「長老! 東で、人間とゴブリンが、戦争を始めたって、本当か!?」
「……左様。旅の商人から、報せは届いておる。だが、それは、人間たちの問題。我ら森の民が、関わることではない」
長老の答えは、静かで冷たかった。
「しかし! 俺の相棒が……! ゴブスケが、そこにいるかもしれないんだ!」
「……あの、ゴブリンの子か。彼もまた、自らの道を選んだ。我々が干渉すべきことではない」
カシムは、何も言い返せなかった。
エルフたちの理屈は、正しい。
だが、彼の心は、理屈では動かなかった。
その夜、カシムは、一人、荷物をまとめていた。
旅のための、乾いたパンと、水。そして、エルフたちがくれた、数種類の薬草の種。
彼は、この楽園を、捨てる覚悟を決めた。
「……行くのか」
背後から、声がした。長老だった。
カシムは、振り返らなかった。ただ、荷物をまとめる手を、止めない。
「……ああ。俺は、あいつの相棒なんでね。あいつが泣いてる時に、知らんぷりできるほど、薄情じゃねえんだ」
「その先は、死地かもしれんぞ」
「上等だ。あいつと一緒なら、地獄だって、退屈しねえさ」
カシムは、荷物を肩に担ぐと、ゆっくりと振り返った。
そして、長老に向かって、深く頭を下げた。
「世話になった。あんたたちのおかげで、俺は、俺だけの魔法を見つけられた。この恩は、忘れねえ」
長老は、何も言わなかった。
ただ、一本の若木の苗木を彼に差し出した。
その葉は、月光のように青白く輝いている。
「……神木の、分け御霊だ。お前の旅路を、守るであろう」
カシムは、その苗木を、震える手で受け取った。
「……最高の餞別だぜ」
カシムは、夜明け前に、一人、里を後にした。
彼を見送る者は、誰もいない。
囁きの森を抜ける。あの時は二人だった道。今は、一人だ。
だが、彼の胸には、神木の温もりと、相棒への、確かな想いがあった。
東へ。
王都から、一人の天才が。
エルフの里から、一人の相棒が。
それぞれの意志で、一つの戦場へと、向かっていた。
まだ、互いの存在に気づかぬまま。
ただ、嵐の中心にいる、たった一人のゴブリンを見つけ出すために。
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