第82話:王の咆哮
洞窟の闇の中、老ゴブリンは動かなくなった。
その命の最後の残り火は、俺の心に巨大な火種を落として消えた。
ゴブリンキング。
人間への解放戦争。
言葉の断片が、頭の中で渦を巻く。
現実感がなかった。まるで、エリアス先生の書斎で見つけた、大昔の叙事詩を読んでいるかのようだ。
だが、目の前の冷たくなった亡骸と、腹から流れ出た血の匂いが、これが物語ではないと告げていた。
洞窟の外へ出る。
夕焼けの赤い光が、廃墟となった集落を血の色に染めていた。
風が吹き抜ける。ひび割れた壺が、からんと乾いた音を立てて転がった。
そこには、かつてゴブリンたちの生活があったはずだ。
たとえ俺がどれだけ嫌悪した、野蛮で、不潔な生活だったとしても。
子供のゴブリンが走り回り、女たちが何かを煮炊きし、男たちが獲物の自慢話をする。そんな、ありふれた日常が。
その全てが、奪われた。
『王』と名乗る、たった一匹のゴブリンによって。
『……解放戦争だと?』
馬鹿げている。
ゴブリンが、人間に勝てるはずがない。
数の力も、武器の質も、知恵も、何もかもが違う。
それは戦争ではない。ただの大規模な自殺だ。
なぜ、そんな単純なことが分からない。
なぜ、同族を死地へと追いやる。
老ゴブリンの最後の言葉が蘇る。
『逆らう者は、裏切り者として、その場で処刑された』
恐怖。
そうだ。『王』は、恐怖で群れを支配しているのだ。
かつて、俺がいた群れの族長がやっていたことと、同じ。
だが、その規模が、比較にならないほど大きい。
全てのゴブリンを、一つの意志の下に。
その意志が、破滅へ向かうものであったとしても、誰も逆らえない。
西の空。王都のある方角。
夕焼け雲の向こうから、戦の音が聞こえる気がした。
それは、実際の音ではないのかもしれない。
この森から完全に生命の気配を奪った、巨大な意志の咆哮が、俺の魂に直接響いてくるようだった。
杖を握る手に、力がこもる。
俺は、何のために旅をしてきた?
強くなるためだ。賢くなるためだ。
いつか、人間とゴブリンの間に立てるような、そんな存在になるために。
アンナに、もう一度会うために。
だが世界は、俺の小さな願いなど待ってはくれなかった。俺が一人で力を蓄えている間に、二つの種族は、決定的な破局へと突き進んでいる。
この戦争が始まれば、どうなる?
人間は、ゴブリンを根絶やしにしようとするだろう。
これまで以上に激しい憎悪を持って、森を焼き、洞窟を潰し、女子供の区別なく、全てのゴブリンを殺戮するに違いない。
そして、ゴブリンもまた、人間を殺すだろう。
憎しみが憎しみを呼び、血が血を洗う。
その先に、何が残るというんだ。
アンナの村は、どうなる?
あの穏やかだった森は。俺がゴブスケという名前をもらったあの場所は。
戦火は、きっと、あの森にも届く。
バルトさんは、村を守るために弓を取るだろう。
そして、ゴブリンキングの軍勢に組み込まれた、かつての俺の同族たちが村を襲うかもしれない。
アンナのあの笑顔が、恐怖に歪む光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
『……止めなければ』
馬鹿げている。
俺一匹に、何ができる。
ゴブリンキングの軍勢は、何千、何万いるか分からない。人間の王国も、巨大な力を持っているだろう。
その巨大な二つの奔流の間に、俺一匹が立ったところで、一瞬で踏み潰されて終わるだけだ。
老ゴブリンは言った。『逃げろ』と。
それが賢い選択だ。
このまま、誰にも知られない森の奥深くへ逃げ込み、嵐が過ぎ去るのを待つ。
生き延びることだけを考える。それが、ゴブリンとしての正しい生存本能。
だが。
俺はもう、ただのゴブリンではない。
エリアス先生に学び、バリン師に杖を授けられ、ヴァレリウス様に問いを与えられた。
カシムという相棒がいた。
そして、アンナという、待っていてくれる人がいる。独りじゃない。
それに、俺には、他の誰にもないものがある。
人間の言葉を話し、ゴブリンの言葉を話す。
人間の魔法を使い、ゴブリンの知恵を持つ。
二つの世界を知る、唯一の存在。
『……俺しか、いないじゃないか』
恐怖で、足が震える。
今すぐ、この場から逃げ出したい。
だが、アンナの顔を思い浮かべると、足が地面に縫い付けられたように、動かなかった。
彼女がくれたマナの結晶が熱い光を放っている。
まるで、行け、と俺の背中を押すように。
決意は、固まった。
逃げない。
俺は、この巨大な狂気と、向き合う。
人間でもなく、ゴブリンでもない、『ゴブスケ』として。
陽は、完全に落ちた。
闇に包まれた廃墟の中で、俺は一人、立ち上がる。
向かうべき場所は、一つ。
戦の音がする方角。
全ての憎しみと、全ての悲しみが集まる場所。
その中心へ。
杖を握りしめる。
先端の結晶が、行く先を照らす道しるべのように、強い光を放った。
それは、夜の闇を切り裂く一本の剣のようだった。
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