表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/101

第82話:王の咆哮

 

 洞窟の闇の中、老ゴブリンは動かなくなった。

 その命の最後の残り火は、俺の心に巨大な火種を落として消えた。


 ゴブリンキング。

 人間への解放戦争。


 言葉の断片が、頭の中で渦を巻く。

 現実感がなかった。まるで、エリアス先生の書斎で見つけた、大昔の叙事詩を読んでいるかのようだ。


 だが、目の前の冷たくなった亡骸と、腹から流れ出た血の匂いが、これが物語ではないと告げていた。


 洞窟の外へ出る。

 夕焼けの赤い光が、廃墟となった集落を血の色に染めていた。 


 風が吹き抜ける。ひび割れた壺が、からんと乾いた音を立てて転がった。

 そこには、かつてゴブリンたちの生活があったはずだ。


 たとえ俺がどれだけ嫌悪した、野蛮で、不潔な生活だったとしても。

 子供のゴブリンが走り回り、女たちが何かを煮炊きし、男たちが獲物の自慢話をする。そんな、ありふれた日常が。


 その全てが、奪われた。

『王』と名乗る、たった一匹のゴブリンによって。


『……解放戦争だと?』

 馬鹿げている。


 ゴブリンが、人間に勝てるはずがない。

 数の力も、武器の質も、知恵も、何もかもが違う。


 それは戦争ではない。ただの大規模な自殺だ。

 なぜ、そんな単純なことが分からない。

 なぜ、同族を死地へと追いやる。


 老ゴブリンの最後の言葉が蘇る。

『逆らう者は、裏切り者として、その場で処刑された』


 恐怖。

 そうだ。『王』は、恐怖で群れを支配しているのだ。

 かつて、俺がいた群れの族長がやっていたことと、同じ。


 だが、その規模が、比較にならないほど大きい。

 全てのゴブリンを、一つの意志の下に。

 その意志が、破滅へ向かうものであったとしても、誰も逆らえない。


 西の空。王都のある方角。

 夕焼け雲の向こうから、戦の音が聞こえる気がした。

 それは、実際の音ではないのかもしれない。

 この森から完全に生命の気配を奪った、巨大な意志の咆哮が、俺の魂に直接響いてくるようだった。


 杖を握る手に、力がこもる。

 俺は、何のために旅をしてきた?

 強くなるためだ。賢くなるためだ。

 いつか、人間とゴブリンの間に立てるような、そんな存在になるために。

 アンナに、もう一度会うために。


 だが世界は、俺の小さな願いなど待ってはくれなかった。俺が一人で力を蓄えている間に、二つの種族は、決定的な破局へと突き進んでいる。


 この戦争が始まれば、どうなる?

 人間は、ゴブリンを根絶やしにしようとするだろう。


 これまで以上に激しい憎悪を持って、森を焼き、洞窟を潰し、女子供の区別なく、全てのゴブリンを殺戮するに違いない。


 そして、ゴブリンもまた、人間を殺すだろう。

 憎しみが憎しみを呼び、血が血を洗う。

 その先に、何が残るというんだ。


 アンナの村は、どうなる?

 あの穏やかだった森は。俺がゴブスケという名前をもらったあの場所は。

 戦火は、きっと、あの森にも届く。


 バルトさんは、村を守るために弓を取るだろう。

 そして、ゴブリンキングの軍勢に組み込まれた、かつての俺の同族たちが村を襲うかもしれない。


 アンナのあの笑顔が、恐怖に歪む光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


『……止めなければ』

 馬鹿げている。


 俺一匹に、何ができる。


 ゴブリンキングの軍勢は、何千、何万いるか分からない。人間の王国も、巨大な力を持っているだろう。


 その巨大な二つの奔流の間に、俺一匹が立ったところで、一瞬で踏み潰されて終わるだけだ。

 老ゴブリンは言った。『逃げろ』と。


 それが賢い選択だ。

 このまま、誰にも知られない森の奥深くへ逃げ込み、嵐が過ぎ去るのを待つ。


 生き延びることだけを考える。それが、ゴブリンとしての正しい生存本能。

 だが。

 俺はもう、ただのゴブリンではない。


 エリアス先生に学び、バリン師に杖を授けられ、ヴァレリウス様に問いを与えられた。


 カシムという相棒がいた。

 そして、アンナという、待っていてくれる人がいる。独りじゃない。


 それに、俺には、他の誰にもないものがある。

 人間の言葉を話し、ゴブリンの言葉を話す。

 人間の魔法を使い、ゴブリンの知恵を持つ。

 二つの世界を知る、唯一の存在。


『……俺しか、いないじゃないか』

 恐怖で、足が震える。


 今すぐ、この場から逃げ出したい。

 だが、アンナの顔を思い浮かべると、足が地面に縫い付けられたように、動かなかった。


 彼女がくれたマナの結晶が熱い光を放っている。

 まるで、行け、と俺の背中を押すように。


 決意は、固まった。

 逃げない。

 俺は、この巨大な狂気と、向き合う。

 人間でもなく、ゴブリンでもない、『ゴブスケ』として。


 陽は、完全に落ちた。

 闇に包まれた廃墟の中で、俺は一人、立ち上がる。

 向かうべき場所は、一つ。

 戦の音がする方角。

 全ての憎しみと、全ての悲しみが集まる場所。

 その中心へ。


 杖を握りしめる。

 先端の結晶が、行く先を照らす道しるべのように、強い光を放った。

 それは、夜の闇を切り裂く一本の剣のようだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ