第81話:静かすぎる森
エルフの里を後にし、季節はまた一つ巡った。
一人、見知らぬ土地を歩き続けている。
カシムは、あの美しい森に残った。
一流の植物魔導師になる。その夢を見つけた彼の顔は、今まで見たどの顔よりも輝いていた。
誇らしい。そう思う。
最高の相棒が、自分の道を見つけたのだから。
だが、一人になった旅路は、時折、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚を思い出させた。
夜、焚き火の炎を見つめる。隣には誰もいない。
カシムの、根拠のない自信に満ちた声が聞こえない。彼の、人を食ったような冗談に、呆れることもない。
その不在が、森の夜を一層深く感じさせた。
『……寂しい、のか』
その感情に名前を付けることは、やめた。
ただ、胸に灯る温かいものを頼りに足を前に進めるだけだ。
カシムとの約束。アンナとの約束。そして、エリアス先生と、ヴァレリウス様に示された道。
まだ俺には、やるべきことがある。
旅は、以前とは全く違うものになっていた。
食料に困ることは、もうない。杖を軽く振るだけで、木の上に実る果実を落とせる。川を泳ぐ魚を、水の流れを操って手元に寄せることもできた。
夜の森も、脅威ではなかった。杖の先端に灯す光が、闇を払う。獣たちは、その魔力の輝きを恐れて、近づいてこない。
強くなった。
エリアスの塔で得た知識。バリン師が鍛えてくれた杖。ヴァレリウス様との対峙。カシムとの旅。その全てが、血肉となっている。
だが、その日、足を踏み入れた森は、どこかおかしかった。
一歩、森に踏み込む。空気が、違う。
いつもなら聞こえるはずの、鳥の声がしない。
リスが木の幹を駆け上がる音も、虫の羽音すらもどこにもない。
森が死んでいた。
風が、木々の葉を揺らす。ざわめきだけが、墓場のような静寂の中を渡っていく。
足を止め、耳を澄ます。
自分の心臓の音と、呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
ゴブリンとしての本能が、背中の産毛を逆立て、警鐘を乱打していた。
『……何かが、おかしい』
杖を強く握りしめ、周囲を警戒しながら、さらに森の奥へと足を進めた。
地面は、落ち葉で埋め尽くされている。だが、その上を歩いた獣の足跡が、一つも見当たらない。
いつもなら、猪が地面を掘り返した跡や、鹿の糞が落ちているものだ。
それが、何もない。
まるで、巨大な箒で掃き清められたかのように、生命の痕跡が、綺麗さっぱり消え失せている。
食料を探すのも忘れ、ただ、この異常事態の原因を探っていた。
そして、決定的な違和感に気づく。
ゴブリンの匂いが、全くしないのだ。
ゴブリンは、どこにでもいる。人間の村の近くには、必ずと言っていいほど、奴らの縄張りがある。
縄張りには、奴ら特有の湿った土と獣の腐肉が混じったような、不快な匂いが染みついているものだ。
この森には、その匂いがかけらもなかった。
『……ありえない』
記憶を探った。
この辺りの地理は、旅の途中で手に入れた、古い地図で頭に入っている。
この森の先には、小さな人間の村がある。そして、その村との緩衝地帯のように、小規模なゴブリンの集落が、一つ存在するはずだった。
故郷の森で見たような、族長が率いる大きな群れではない。せいぜい十数匹程度の小さな集落。
だが、奴らがいれば、必ず痕跡が残る。
食べ散らかした獲物の骨。縄張りを主張するための、汚物の臭い。意味もなく木に刻みつけられた、傷跡。
その全てがない。
まるで、最初から、この森にゴブリンなど存在しなかったかのように。
それは、あまりにも不自然だった。
ゴブリンは、しぶとい。人間がどれだけ討伐隊を組もうと、森の奥へ逃げ込み、繁殖し、いつの間にか、また数を増やしている。
それが、ゴブリンという生き物だ。
そのゴブリンが、痕跡一つ残さずに一つの森から、完全に消える。
そんなことが、ありえるだろうか。
強い、胸騒ぎがした。
これは、ただごとではない。
俺の知らないところで、何かとてつもなく大きなことが起きている。
決意した。
この目で、確かめなければならない。
地図に記された、ゴブリンの集落があったはずの場所へと針路を変えた。
獲物を探すためではない。不気味な静寂の正体を突き止めるために。
森は、奥へ進むほど、その静けさを増していった。
太陽は、高い木々の葉に遮られ、昼間だというのに森の中は薄暗い。
風の音だけが、時折、獣の呻き声のように木々の間を吹き抜けていく。
半日ほど、歩いただろうか。
鼻が、かすかな匂いを捉えた。
それは、ゴブリンの匂いではなかった。
血の匂い。
それも、乾ききった古い血の匂いだ。
杖を構え、匂いの元へと慎重に近づいていく。
そして、開けた場所で、それを見つけた。
地面に転がる、一本の錆びた棍棒。ゴブリンが使うありふれた武器。
その周りの地面が、黒く変色している。
乾いた血の跡だ。
争いがあった。ここで、誰かが血を流した。
さらに奥へと進んだ。
やがて、ゴブリンが好んで作る、見覚えのある岩の配置が見えてくる。
集落の入り口。
いつもなら、見張りのゴブリンが、二、三匹、退屈そうに欠伸でもしているはずの場所。
だが、そこに誰の姿もなかった。
代わりに、無数のカラスが、近くの木の枝に止まり、不気味な声で鳴いている。まるで死肉を待つかのように。
息を殺し、岩陰から、集落の中を窺った。
そして、目に映った光景に言葉を失った。
集落は、廃墟と化していた。
粗末な住居は、内側から破壊され、見るも無残に引き裂かれている。
炊事場だったであろう場所には、火の気はなく、ひっくり返った鍋が虚しく転がっているだけ。
武器も、食料も、生活の痕跡も、何もかもがそこにはなかった。
ただ、静寂だけがその場所を支配していた。
背筋を、冷たい汗が伝う。
これは、人間の討伐隊の仕業ではない。
人間の襲撃なら、もっと、戦いの痕跡が残るはずだ。矢が突き刺さっていたり、剣で切り裂かれた死体が転がっていたりする。
だが、それがない。
まるで、神隠しにでもあったかのように、そこに住んでいたはずのゴブリンたちが、忽然と姿を消していた。
一歩、集落の中へと足を踏み入れた。
乾いた土を踏む、自分の足音だけが、やけに大きく響く。
その時、耳が、かすかな音を拾った。
うめき声。
まだ、誰か生き残りがいるのか。
音のする方へと、駆け寄った。
それは、一番大きな住居だったであろう、洞穴の奥から聞こえてくる。
杖の先に光を灯し、その暗闇を照らした。
そこにいたのは、一匹の年老いたゴブリンだった。
彼は、壁に寄りかかり、腹から大量の血を流していた。もう助からないだろう。
その濁った目が俺の姿を捉えた。
「(……誰だ、貴様は……?)」
か細い声が、ゴブリンの言葉を紡ぐ。
「(……見慣れぬ、顔だな……。だが、もう、どうでもいい……)」
彼の前に膝をついた。
「(何があった。人間か?)」
ゴブリンの言葉で尋ねる。その問いかけに、老ゴブリンは虚ろな目をわずかに見開いた。
彼はもう、そんなことを気にする力も残っていないようだった。
乾いた笑いを漏らす。
「(……人間、なぞでは、ない……。もっと、恐ろしい……)」
彼の目が、何か、途方もない恐怖を思い出したかのように大きく見開かれる。
「(……『王』が、現れたのだ……。我ら、全てのゴブリンを統べる、絶対の王が……!)」
『王……?』
「(……『王』は、命じた……。全ての同族は、我の下へ集え、と……。人間どもへの、『解放戦争』を、始めると……!)」
息を呑んだ。
ゴブリンが、一つの王の下に集う。
そして、人間との戦争。
「(……逆らう者は、裏切り者として、その場で処刑された……。我も、徴兵を拒んだがために、このザマよ……。息子も、孫も、皆、連れていかれた……。あの、血に飢えた軍勢に……)」
老ゴブリンの目から、光が消えていく。
彼の最後の言葉は、もはや声になっていなかった。
「(……逃げろ、若いの……。もう、誰にも、止められん……。この森も、すぐに、戦場と、なる……)」
そう言うと、彼は、がくりと首を垂れた。
もう動かない。
その場に、立ち尽くした。
ゴブリンキング。
人間への、解放戦争。
一人で旅をしている間に。
知らないところで、世界は、破滅へと向かう巨大な歯車を回し始めていたのだ。
洞窟の外へ出た。
空は、不吉なほどに赤く燃えていた。
西の空。
王都のある方角。
その地平線の彼方から、かすかに聞こえてくる。
無数の、鬨の声と、戦を知らせる、角笛の音が。
俺は、杖を強く握りしめた。
平穏な旅は、終わった。
ここから先は、戦場だ。
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