第80話:独りの旅路
神木は救われた。俺たちの奇妙な共同作業によって。
里には以前の活気が戻り、エルフたちの顔には安堵の笑みが浮かんでいた。その笑顔の中心にはいつもカシムがいた。
神木を救ったことで、カシムはエルフたちから英雄として、そして仲間として受け入れられる。
これまで彼を「金貨の匂いがする人間」と蔑んでいたエルフたちが、今では彼の元を訪れては、尊敬の念を込めて植物に関する質問をしていた。
「カシム殿。神木の癒えぬ傷について、あなたの見解を聞かせてはいただけないか」
「人の子でありながら森の声を聞く者よ。あなた様はこの里の恩人だ」
カシムはその一つ一つに照れくさそうに、しかし満更でもない顔で丁寧に答えている。
ハッタリではない。彼自身の本物の言葉で。
俺はそんな彼の姿を、少し離れた場所から見ていた。
誇らしいような、少しだけ寂しいような奇妙な気持ちだった。
その日の夕暮れ、俺たちはエルフの長老の元へと呼び出された。
「カシムよ。君の才能はこの森にとってかけがえのない宝だ」
長老は、カシムの目をまっすぐに見つめて言った。
「どうかこの里に残り、我らと共にその才能を本格的に磨かないか」
その言葉にカシムは息を呑んだ。
俺も驚いて彼の横顔を見る。
エルフの里に残る。それは、彼が夢見ていた植物魔法の最高峰を学ぶ、またとない機会。
だが、カシムはすぐに答えなかった。
彼はただ黙って、俺の顔を一度も見なかった。
その夜、宿屋に戻っても俺たちの間に言葉はなかった。
カシムは荷物をまとめたり、それをまた解いたりを何度も繰り返している。革袋に旅の道具を詰めたかと思えば、次の瞬間にはそれを全て床にぶちまける。
俺はそんな彼の姿を黙って見ていた。
「……なあスケ。どう思う」
やがてカシムが床に座り込んだまま俺に尋ねた。
「ここにいれば俺は……本物になれる。ハッタリじゃない本当の魔術師にだ。だが、そしたらお前との旅は……」
その声は、ひどく弱々しかった。
「俺がいなくて大丈夫かよ。お前、一人じゃリンゴ一つまともに買えねえだろ。また変な薬作って、街の連中から追いかけられるんじゃねえか?」
彼は、冗談めかして言ったが、その目は笑っていなかった。
「……初めて会った時のことを、覚えているか」
俺は、静かに尋ねた。
「はあ? なんだよ急に。王都の森か? お前が化けて出てきた時のことかよ」
「お前は、ミントの葉を浮かべた水を、秘薬だと言って売ろうとしていた」
「うっ……! あれは、その、商売の練習だ! 昔の話を掘り返すな!」
カシムは顔を赤くした。
俺は続ける。
「あの時、俺はお前を利用しようとしていた。ヴァレリウス様に会うための、ただの駒としてだ」
「……知ってたよ、そんなこと」
カシムはそっぽを向いて呟いた。
「俺だって、お前のこと利用しようとしてたんだからな。エリアス様の使いだって聞いて、こりゃとんでもないコネだって舞い上がってたんだ。お互い様だろ」
「だが、違った」
俺は彼の目を見た。
「蛇の巣に、お前は一人で行こうとした。俺のために、セラフィナに立ち向かおうともした。……お前は、ただの駒じゃなかった。最高の相棒だった」
「……やめろよ。照れるだろ」
俺たちの間を、気まずいが温かい沈黙が流れる。
俺は、大図書館での彼の叫びを思い出す。
『俺は、お前のただの荷物持ちじゃない!』
「お前の道は、お前が決めるべきだ」
俺は、静かにそう言った。
「お前は自分の道を見つけた。俺も自分の道を探さなければならない。それだけだ」
「……俺の道、か」
「カシムは最高の相棒だ。だが、お前の心がいちばん使いたい場所。それがお前のいるべき場所だ」
俺の言葉にカシムは何も言わなかった。
ただ彼は自分の手のひらをじっと見つめていた。神木の声を聞いたその手を。
翌朝。
カシムは長老の元へ一人で向かった。
そして昼過ぎに戻ってきた彼の顔は、すっかり晴れやかだった。
「……決めたよ、スケ」
彼は、俺の前に立つと少しだけ照れくさそうに笑った。
「俺はここに残る。そして一流の植物魔導師になって、必ずお前に追いつく」
彼は、俺に向かって拳を突き出した。
「……最高の相棒の約束だ」
俺は、その拳に、自分の拳をこつんと合わせた。
「……ああ。約束だ」
俺の旅立ちの朝。
里のエルフたちが総出で俺を見送りに来てくれた。
長老は俺に、森の恵みが詰まった旅の食料をくれた。
「あなたの魂が真の形を見つけんことを。ゴブスケ殿」
他のエルフたちは、感謝の言葉と旅の無事を祈る言葉をくれた。
そしてカシム。
彼は、俺の肩を力強く叩いた。
「死ぬんじゃねえぞ、スケ! ……いや」
彼は少しだけ笑って、俺の名前をはっきりと呼んだ。
「ゴブスケ。死ぬんじゃねえぞ。またどっかで会おうぜ!」
その目には涙が浮かんでいた。
「お前がアンナって子に会う時までには俺も一流になって、でけえ顔して会いに行ってやるからな!」
『……ああ。俺は、ゴブスケだ』
「……ああ。待ってる」
俺は、一人エルフの里を後にした。
囁きの森を抜ける。あの時は二人だった道。今は一人だ。
森を抜け、どこまでも続く見知ぬ街道に立つ。
俺はどこへ向かえばいいのだろうか。
アンナの元へ、帰る?
いやまだだ。俺は、まだ何も成し遂げていない。
ヴァレリウス様の、あの問いにもまだ答えられていない。
『その姿を、何のために使うのか』
相棒は自分の道を見つけた。
だが、俺の道はまだ霧の向こうだ。
俺は、ただ一人当てもなく歩き始めた。
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