第77話:異邦人
囁きの森の、最後の木々を抜けた瞬間。
俺たちは、息を呑んだ。
そこは、巨大な森そのものが、一つの街となっている、美しい場所だった。
天を突くほど巨大な木々。その太い幹には、いくつもの家が、きのこのように寄り添い建てられている。家と家は、蔦や生きたままの枝で編まれた、しなやかな橋で結ばれていた。
地面は、石畳ではなく、柔らかな苔で覆われている。空気は、花の蜜のような甘い香りと、澄んだ水の匂いで満ちていた。
高い梢の葉の間から、木漏れ日がキラキラと降り注ぐ。
「……すげえ」
カシムが、呆然と呟いた。
「これが……エルフの里か……」
俺は、人間の少年『スケ』の姿に戻っていた。この美しい里の住人に、警戒されたくなかったからだ。
俺たちが、その苔の道に、最初の一歩を踏み出した時だった。近くの木の家から、一人のエルフが姿を現した。
背が高く、細い体。銀色の髪を、風になびかせている。尖った耳。そして、何百年も生きているかのような、静かで深い瞳。
俺は、生まれて初めて見る、本物のエルフに、見惚れていた。
エルフの瞳が、俺たちを捉えた。
その視線は、まずカシムに向けられ、次に俺の姿の上を滑った。
その瞬間、彼の瞳に、かすかな侮蔑と汚れたものを見るかのような嫌悪の色が浮かんだ。
それは、カシムの金貨の匂いに向けられたものではない。もっと、根源的な存在そのものへの拒絶。
エルフは、何も言わずに、すっと踵を返し家の奥へと消えてしまった。
「……なんだよ、今の」
カシムが、不満そうに呟く。
「感じ悪いぜ、エルフってのは。俺たち、何かしたか?」
それは始まりに過ぎなかった。
俺たちが里を歩くと、すれ違うエルフたちが、皆、同じような反応を見せる。
彼らは、俺たちの姿を認めると、一瞬だけ足を止め、その深い瞳で俺を見つめる。そして、何も言わずに、まるで汚泥を避けるかのように、道を開けて通り過ぎていく。
その視線は、俺の、人間の少年の仮面を、やすやすと見透かし、その奥にあるゴブリンの魂を、直接睨みつけているようだった。
「やあ! 驚いたかい! 旅の者なんだが、長老殿に会わせてはもらえないかな?」
カシムが、いつもの調子で、近くにいたエルフの集団に、声をかける。
だが、彼らは、カシムのことなど存在しないかのように、一瞥もくれない。ただ、その中の何人かが、俺の方を、冷たい目で見ているだけだった。
その完璧な無視は、どんな罵声よりもカシムの心を抉ったようだった。
「……くそっ! なんだってんだ、こいつら! 鼻持ちならねえ!」
カシムは、悪態をつく。
よそ者への不信感が、この美しい里の空気全体に、渦巻いていた。
俺たちは、道行くエルフに、何度も、何度も声をかけ、ようやく里で一番大きな木を教えられた。長老は、そこにいるらしい。
その木の根元は、巨大な広間のようになっていた。
入り口に立つ、二人のエルフの衛兵が、俺たちの前に、槍を交差させて立ちはだかる。
「止まりなさい、人間。そして……」
衛兵の一人が、その言葉を区切り、俺をまっすぐに見据えた。
「……穢れたものよ」
「なっ……!?」
カシムが、その侮辱に激昂した。
「俺は、カシム! 旅の魔術師だ! あんたたちの、植物魔法を学びに来た! 俺には、その才能がある! 長老に会わせてくれ!」
衛兵の一人が、カシムを、頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように見下ろす。そして、心底くだらないというように、ふっと息を漏らした。
「森の声を聞けぬ人の子に、学ぶ資格はありません」
そして、その衛兵の視線が再び俺へと戻る。
「ましてや、ゴブリンを連れてこの聖域を汚そうとする人間など論外です」
その言葉に、カシムの動きが、完全に止まった。
彼は、信じられないという顔で、衛兵と、俺の顔を交互に見比べた。
「ゴブリン……? 何言ってんだ、あんた。こいつは、スケだ。俺の、人間の……」
「その、粗末な仮面は、我々には通用しません」
衛兵の言葉は、静かだが刃物のように鋭かった。
もう一人の衛兵が、俺の姿を、まるで信じがたい凶兆でも見るかのように見つめ、呆然と呟いた。
「変異魔法を使うゴブリン……。天変地異の前触れか?それとも俺の気が触れたか?」
「お引き取りください。ここは、あなた方のような者が、足を踏み入れる場所ではない」
揺るぎない拒絶だった。
俺の変異魔法は、ここでは何の役にも立たない。彼らは、俺が何者であるか、最初から全てお見通しだったのだ。
俺たちは、何も言い返せなかった。
ただ、その場から、すごすごと引き下がるしかない。
俺たちは、この美しい里で、完全な異邦人だった。
「……なんだってんだ、あいつら!」
広場に戻り、カシムが地面を蹴りつけた。
「ゴブリンだと!? なんで、バレたんだよ! お前の魔法はどう見ても完璧だよ!」
俺は、黙って里を見渡していた。
エルフたちは、俺たちに、もう興味も示さない。ただ、その視線の端々から、冷たい拒絶の意思だけが、伝わってくる。
俺の、人間の仮面。
それは、この古の種族の前では、あまりにも脆く無力だった。
俺たちは、目的地に着いた。
だが、その扉は、俺自身の存在によって、固く閉ざされていた。
俺は、この美しい里の、目に見えない壁の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
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