第76話:囁きの森
エルフの里。
カシムの新しい夢。俺たちの、新しい目的地。
その里への道は、ただ一つの森によって外界から固く閉ざされていた。
囁きの森。
一歩、足を踏み入れた瞬間、その名の意味を肌で理解した。
ざわ、と木々が揺れる。風はない。葉と葉が擦れ合う音に、誰かのひそひそ話のような、奇妙な響きが混じっていた。
光は、まだらに、ありえない角度から差し込み、俺たちの影を何本にも引き伸ばしては、揺らめかせる。
「……おい、スケ。なんだか、気味の悪い場所だな」
カシムが、俺の隣でごくりと喉を鳴らした。
「道は、これで合ってるんだろうな? 本当にこの先に、エルフの里なんてあんのかよ」
「ああ。地図では、この一本道だけだ」
だが、俺たちが一時間も歩かないうちに、その一本道は消えた。
いや、消えたのではない。いつの間にか、道が三つに分かれている。振り返ると、俺たちが歩いてきたはずの道も、同じように、三つに分かれていた。
どの道も、全く同じ景色。
「……はあ? なんだこりゃ。幻術か!」
カシムは杖を構え、解呪の魔法を唱えようとした。だが、マナは霧散するだけ。森の、もっと強力な何かにかき消されてしまう。
「クソッ! 格が違いすぎる! 俺の魔法じゃ、傷一つつけられねえ!」
俺たちは、仕方なく一つの道を選んだ。
どれだけ歩いても景色は変わらない。同じ形の、ねじくれた大木が、何度も、何度も、俺たちの前に現れる。
俺たちは、同じ場所をぐるぐると回らされていたのだ。道は、強力な幻術で侵入者を拒む「囁きの森」に閉ざされていた。
「もう、やめだ! 腹も減ったし、ここで野宿するぞ!」
数時間が過ぎ、カシムは、ついに根を上げた。
「だめだ。この森で眠ったら、二度と目が覚めない気がする」
囁き声が、だんだんと大きくなっている。甘く眠りへと誘う子守唄のようだった。
俺は、覚悟を決めた。
「カシム。少しだけ離れていろ」
「あ? なんだよ急に」
俺は、変異魔法を発動させ、ゴブリンの姿に戻る。
人間の姿から、緑色の肌の、見慣れた姿へ。
「うおっ! おい! 一声かけろよ、心臓に悪い!」
カシムが、驚いて飛びのく。
「人間の目は、騙しやすい」
俺は、自分の鼻を指で叩いた。
「だが、匂いは、嘘をつかない」
ゴブリンの研ぎ澄まされた感覚。
俺は、地面に鼻を近づけ、匂いを嗅ぎ分けた。
幻術が見せる偽物の木々。そこからは、土と水と光の匂いしかしない。
だが、本物の木。その根元からは、もっと複雑な生き物の匂いがする。虫の匂い、獣の匂い、そして、苔の匂い。
「……こっちだ」
俺は匂いを頼りに、本物の木々だけを辿って歩き始めた。
これで、同じ場所を回ることはない。
だが、道は、まだ分からない。
本物の木々は、不規則に生えているだけ。どちらへ進めば、森の奥へたどり着けるのか。
「……なあ、スケ……」
俺の後ろを、おそるおそるついてきていたカシムが声を上げた。
「俺にも、何か、やらせてくれ。お前だけに、格好つけさせるわけにはいかねえだろ」
彼の目は、本気だった。
「お前が、本物の木を見つけ出す。そして、俺が、その木に道を聞く」
「木に聞く?」
「ああ。俺の、新しい魔法だ。まだ、できるか分からねえけどな」
カシムは、俺が指差したひときわ大きな樫の木に、そっと手のひらを当てた。
彼は、目を閉じ意識を集中させる。
それは、彼が唯一興味を示していた「植物魔法」だった。カシムは、これまでの旅で培われた、わずかな植物との対話能力を頼りに、森が示す本当の道筋を感じ取ろうと試みる。
「……おい、木よ。聞こえるか? 俺はカシムだ。……道に迷っちまってな。エルフの里に行きたいんだが……どっちだ?」
彼は、真剣に木に語りかけていた。
黙ってその様子を見守る。
長い、沈黙。
やがて、カシムが目を開けた。
「……こっちだ、と言ってる気がする。こっちの方へ、強く伸びてる」
それは、あまりにも不確かな頼りない道しるべ。
だが、俺たちには、それしか無かった。
「……信じるのか、カシム」
「信じるしかねえだろ。」
彼は、少しだけ照れくさそうに笑った。
ぎこちないながらも、二人は互いの力を信じて、森の奥へと進んでいく。
俺が本物を見つけ、カシムがその声を聞く。
囁き声は、まだ聞こえる。だが、それは、もう俺たちを惑わすためのものではない。
まるで、俺たちの進む道を祝福するかのように。
森の木々が風に揺れて、ざわざわと歌っているようだった。
やがて、俺たちは、森の向こうに、これまでとは違う、柔らかな光が差し込んでいるのを見つけた。
出口は、もうすぐだ。
俺は、カシムと顔を見合わせ、力強く頷いた。
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