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第73話:天空の修道院と沈黙の対話

 

「ペースト!? 魔法の研磨剤だと!? スケ、お前は、天才だ! 量産するぞ! この街の、全ての工房に売りつけてやる! 俺たちは、大金持ちだ!」

 宿屋に戻るなり、カシムは、俺の肩を掴んで叫んだ。

 彼の目は、もう次の儲け話に、爛々と輝いている。


 俺は、そんな彼の欲望に満ちた顔を見つめていた。

 職人の、あの純粋な賞賛。カシムの、金貨の匂いがする興奮。

 二つの、全く違う種類の喜び。

 そのどちらも、俺の心には、届かなかった。

 俺は、ただ、自分がどんどん、人間からも、ゴブリンからも、遠い場所へ行ってしまうような、奇妙な寂しさを感じていただけだった。


 俺たちは、その翌日、職人の街を後にした。

 カシムは、俺が「魔法の研磨剤」の量産を断ったことに、ひどく腹を立てていた。


「なんでだよ、スケ! 俺たちは大金持ちになれたんだぞ! なんであの話に乗らなかったんだ!」

「……あれは、金儲けのためのものじゃない」

「じゃあ、なんなんだよ!」

「……分からない。だが、違う」


 そんな、噛み合わない会話を繰り返しながら、俺たちの旅は続く。

 やがて、俺たちは、世界の屋根と呼ばれる、険しい山脈地帯へと足を踏み入れた。


 そこは、雲の上に広がる、静寂の世界だった。

 カシムの不満の声も、風の音にかき消される。


 俺たちは、何日もかけて、その険しい山道を登り続けた。

 そして、ついに、一番高い頂の上に、それを見つけた。


 天空の修道院。


 風に削られた、白い石だけで作られた、簡素な建物。まるで、世界のてっぺんに、誰かがそっと置いた、小石のようだった。


 修道院の門を叩くと、中から、一人の修行僧が現れた。

 彼は、何も言わなかった。

 ただ、俺たちに、穏やかな笑みを向けると、静かに、中へと招き入れてくれた。


 修道院の中は、完全な沈黙に支配されていた。

 そこに暮らす十数人の修行僧たちは、誰一人として、言葉を交わさない。

 彼らは、風や雲の流れと対話することで、真理を探究する魔術師たちなのだと、カシムが、どこかで仕入れてきた知識を、ひそひそ声で俺に教えてくれた。


「おい、スケ。気味の悪い場所だな。喋ったら、殺されるのか?」

 俺は、首を横に振った。

「……違うと思う」


 俺は、その沈黙の世界に、奇妙な安らぎを覚えていた。

 常に「人間のスケ」を演じ、言葉を使い、心をすり減らすことに、俺は疲れていたのだ。

 ここでは、誰も、俺に何も求めない。

 俺は、ただの旅人として、そこにいることを許された。


 案内された部屋は、石を切り出しただけの、簡素なものだった。ベッドと、小さな水差しがあるだけ。

 カシムは、その殺風景な部屋を見回すと、大きなため息をついた。

「マジかよ……。飯はどうなってんだ? まさか、霞でも食って生きてるのか、ここの連中は」


 俺は、そんな彼を部屋に残し、一人、外に出た。

 修道院の、崖に面したテラス。そこから下は、見渡す限りの雲海が広がっている。

 数人の僧たちが、崖の縁に座禅を組み、ただ、じっと動かずに座っていた。

 俺は、その光景を、一日中、眺めて過ごした。


 彼らは、ただ、座っているだけ。

 だが、その周りでは、確かに、何かが起きていた。


 一人の僧が、そっと、手を上げる。

 すると、崖の下から吹き上げてくる風の向きが、わずかに変わった。まるで、風が、彼の手にじゃれつくように。

 別の僧が、指先で、空に円を描く。

 すると、頭上を流れる雲が、その動きに合わせるように、ゆっくりと、渦を巻いた。


 詠唱はない。魔力の奔流もない。

 だが、それは、間違いなく、魔法だった。

 エリアス先生の理論とも、ヴァレリウス様の完璧な制御とも、バリン師の魂の鍛冶とも違う。

 言葉や理屈を超えた、世界の声を「聴く」という、新たな魔法の形。


『……これか』


 ヴァレリウス様の教え、「無我」。

 俺は、心を空にすることばかり考えていた。

 だが、本当は、違ったのかもしれない。

 自分の心の声を消し、その空っぽになった器に、世界の声を、招き入れる。

 風の声を、雲の声を、岩の声を、聴く。

 それこそが、「無我」への、道筋なのではないか。


 俺は、僧たちの真似をして、崖の縁に座り、目を閉じた。

 耳を澄ます。

 ゴー、と風が唸る音。

 その音の奥にある、もっと、か細い声を、聴こうとする。


「……スケ!」

 背後から、カシムの声がした。

「何してんだ、こんなとこで。坊さんたちの真似か? そんなことしたって、腹は膨れねえぞ」

「……静かに、カシム。今、大事なところだ」

「大事なところって……。なあ、俺、もう限界だ。何か食いもん、もらってこようぜ。ジェスチャーでさ、『腹減った』ってやれば、さすがに分かるだろ」


 彼の言葉に、俺の集中は、無残に断ち切られた。

 何も、聞こえない。

 聞こえるのは、隣で、退屈そうに腹を鳴らす、カシムの音だけだった。


「……なあ、スケ。腹、減らねえか?」


 俺は、目を開けた。

 道は、まだ、遠い。

 だが、俺は、確かに、新しい一歩を、踏み出したような気がした。

 俺は、生まれて初めて、自分の意志で、世界の声を、聴こうとしていた。

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