第71話:砂塵の都と星の民
「俺は、この街を離れる」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
カシムの顔から、笑みが消える。
彼の、酒で潤んでいた瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
宴の熱気も、英雄の傲慢さも全てが吹き飛んだ、素のカシムがそこにいた。
「……は? 何、言ってんだよ、お前」
彼の声は、か細く震えていた。
「離れる? この街を? なんでだよ! 俺たちは、今、最高の時じゃねえか! 金も、名声も、全部手に入れたんだぞ!」
「それは、お前の手柄だ。俺のじゃない」
俺は、静かに答えた。
「俺は、英雄じゃない。ただの、ゴブリンだ」
俺の言葉に、カシムは、何も言い返さなかった。
彼は、俺の目を、じっと見つめていた。俺の心の奥底にある、暗い空洞を、見透かそうとするかのように。
やがて彼は、長く重いため息をついた。
「……わかった」
その声には、、いつもの軽薄な響きはなかった。
彼は、壁にかかっていた自分の旅支度用のマントを、乱暴に掴み取る。
「それじゃ、俺も行くか」
「え……?」
今度は、俺が驚く番だった。
「ったく!決まってんだろ」
彼は、悪態をついたが、その目は少しだけ笑っていた。
「お前みたいな、世間知らずの朴念仁を、一人で旅に出せるかよ。それに……」
彼は、窓の外の煌びやかな街の灯りを見つめた。
「英雄、ねえ。……正直、ちょっと、飽きてきたところだったんだよ」
こうして、俺たちの二度目の旅が始まった。
俺たちは、夜明け前に、誰にも告げずに、ポルタ・フィエラの街を後にした。
俺たちが次に向かったのは、カシムが「一度見てみたかった」と言い張る、南の大砂漠だった。
緑豊かな街道は、次第に乾いた荒野へと姿を変え、やがて、見渡す限りの砂の世界が俺たちを迎えた。
旅は、過酷を極めた。
昼間は、灼熱の太陽が容赦なく体力を奪い、空気が陽炎のように揺らめいて、方向感覚を狂わせる。夜は、凍えるような寒さが骨身に染みた。
水は、すぐに底をついた。
「クソッ……! 死ぬ……! 俺は、こんな砂の真ん中で、干からびて死ぬのか……!」
カシムは、砂丘の上で、大の字になって伸びていた。
俺は、そんな彼を横目に、遠くの地平線を見つめる。
人間の目には、ただ、同じような砂の景色が続いているだけだろう。俺は、変異魔法を解きゴブリンの姿に戻る。
ゴブリンの目は、夜の闇に強い。そして、昼間の、強すぎる光の中では、人間には見えない、微かな色の違いを捉えることができる。
風が運ぶ砂の色。遠くの岩肌の色。
その、ほんのわずかな違いが、この砂漠の見えない道筋を示してくれていた。
「……カシム。立つんだ。あっちだ」
俺は、一つの方向を指差した。
「あっちって、どっちだよ! 何も見えねえじゃねえか!」
「星が、そう言っている」
「昼間だぞ!?」
俺は、エリアス先生の書斎で読んだ、天文学の知識を思い出す。
この砂漠を旅する人々は、夜、星の位置を見て、方角を知る。だが、昼間でも太陽の位置と自分の影の長さ、地平線にかすかに見える星の位置関係で、正確な方角を知ることができるのだ。
俺たちは、俺のゴブリンとしての目と、本で得た知識だけを頼りに、砂漠を進んだ。
そして、旅を始めて五日目の夕暮れ。
俺たちは、ついに見つけた。
地平線の彼方に、蜃気楼のように揺らめく、巨大な城壁。
砂と同じ色をしたオアシス都市。
近づくにつれて、その街の異様さが分かってくる。
壁も、家も、全てが日干し煉瓦で作られていた。石や木といった、俺が知っている街の材料とは、何もかもが違う。
街全体が、まるで巨大な砂の城のようだった。
城壁には、幾何学的な模様が彫り込まれ、塔の先端は、夜空の星座を模した形をしている。
街の門には、屈強な衛兵の代わりに、深いフードを目深にかぶった二人の老人が静かに立っていた。
彼らは、俺たちのような旅人を、値踏みするようには見ない。ただ、そのフードの奥から、俺たちの魂の色でも見ているかのように、静かに見つめてくるだけだった。
街の中は、ポルタ・フィエラの喧騒とは、全く違う種類の活気に満ちている。
人々は、ゆったりとした、風通しの良さそうな、藍色や白の貫頭衣を身にまとう。その顔は、強い日差しと、砂漠の厳しさによって、深く刻まれていた。
金への欲望や、猜疑の色はない。彼らの瞳には、夜空のように、深い光が宿っていた。
市場では、金貨ではなく、塩の塊や、干した肉、そして美しい模様が織り込まれた布が、物々交換でやり取りされている。香辛料と、家畜の匂い、そして、どこからか聞こえてくる、弦楽器の物悲しい音色。
その夜、俺たちは、都の広場で空を見上げていた。
砂漠の夜空は、手が届きそうなほど近く、無数の星々が、ダイヤモンドのように輝いている。天の川が、白い河となって空を横切っていた。
広場の中央には、焚き火が大きく燃え盛り、その周りを街の人々が静かに囲んでいる。
神官らしき老人が、星々の動きを読み解き、人々に明日の天候や旅の吉凶を告げていた。
「……明日の日の出、一番星は『旅人の星』。東からの客人は、吉報を運ぶであろう」
神官の言葉に、人々は静かに頷く。
ここでは、金貨の数や土地の広さではない。
星を読む知識、砂漠を生き抜く知恵。それこそが、最も尊ばれていた。
「……すげえな、この街は」
隣で、カシムが、感嘆の声を漏らす。
「俺のハッタリも、ここでは通用しそうにねえや。金より、星占いのほうが信用されるなんてな」
俺は、黙って星空を見上げていた。
人間社会の価値観は、決して一つではない。
金や名声だけが全てではない。
ポルタ・フィエラでは、俺の仮面がなければ、親切一つ受けられなかった。だが、ここでは、旅人というだけで、人々が水を分けてくれる。
俺がゴブリンだと知っても、彼らは、同じように接してくれるのだろうか。
そんな、淡い期待が胸に芽生えていた。
俺は、この砂塵の都で、当たり前の事実を肌で感じていた。
俺の心を縛り付けていた重い枷を、少しだけ軽くしてくれるような、不思議な発見だった。
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