表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/101

第70話:仮面の先にあるもの


 英雄の宴は、毎晩のように続いた。


「いやあ、カシム殿! あなたこそ、この街の宝だ!」

「この『黒き生命の泉』があれば、我が商会も安泰ですな!」


 店の扉の向こうから、カシムを称える声と、裕福な商人たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。

 今日の宴の会場は、商人ギルドの長が開いてくれた、街で一番豪華なレストランらしい。


 カシムは、英雄として祭り上げられ、街の有力者たちとの会食に明け暮れていた。


 俺は一人、薄暗い店の奥で、薬草をすり潰していた。

 石の乳鉢が、ゴリ、ゴリ、と乾いた音を立てる。その音だけが、俺の世界の全てだった。


 俺は、もう宴には呼ばれない。カシムが、うまく言ってくれているのだ。「弟子のスケは、人見知りでして。一人で薬の研究をしている時が、一番幸せな奴なんです」と。


 嘘だ。

 俺は、あの場所が怖い。

 人々の感謝と、称賛の視線。その全てが、俺の心を針で刺すように痛いからだ。


「……スケ君。お疲れ様」

 店の裏口から、そっと声がした。


 昼間、薬を届けに行った、貧民街の母親だった。彼女は、俺たちの店の掃除や、雑用を手伝ってくれるようになっていた。


「旦那がね、あんたたちの薬のおかげで、また仕事に行けるようになったんだ。本当に、ありがとう」

 彼女は、小さな包みを俺に手渡した。中には、まだ温かい焼きたてのパンが入っている。


「夜食にでも、と思ってね。カシム様にも、よろしく伝えておいておくれ」


「……ありがとう」

 俺は、か細い声で、それだけ言うのが精一杯だった。

 彼女の、純粋な感謝の眼差し。それが、俺には、何よりも重い。


 俺は、彼女に嘘をついている。俺は、彼女が思うような、健気な弟子などではない。

 その正体は、彼女たちが最も忌み嫌うゴブリンなのだから。


 母親が帰った後、俺は、もらったパンを一口だけかじった。

 優しい味がした。だが、その味は、砂を噛むように、俺の喉を通っていかなかった。


 夜が更け、カシムが上機嫌で店に帰ってきた。

 高価な酒の匂いと、満足げなため息を部屋に撒き散らしながら。


「よお、スケ。まだ起きてたのか」

 彼は、金貨が詰まった重い袋を、カウンターに放り出す。チャリン、と虚しい音がした。


「すごいぜ、今日の会食は。市長まで来てたんだ。俺に、名誉市民の称号を贈りたい、だとさ! はっ! 俺も、ついにここまで来たか!」

 彼は、店の椅子にふんぞり返って座った。


 その顔には、俺が初めて会った頃の三流魔術師の卑屈な影は、もうどこにもない。

 自信と、傲慢さが、その顔に張り付いていた。


 俺は、すり潰していた薬草から顔を上げた。

 そして。


「カシム。俺たちは、いつまで、これを続けるんだ?」


 俺の問いに、カシムの陽気な顔が、一瞬だけ固まった。

「……何言ってんだよ、スケ。始まったばっかりじゃねえか」

「貧民街の病気は、もう治った。俺たちの役目は終わったはずだ」

「終わりじゃねえ! 俺たちの伝説は、ここから始まるんだよ!」


 カシムは立ち上がると、俺の前に立った。その目は、野心で爛々と輝いている。 


「いいか、スケ。これは、ただの薬売りじゃねえ。俺たちは、この街の権力の中枢に食い込むんだ。この名声があれば、もっといい薬を作って、もっと大勢の人を助けられる! 金持ちから金を取って、貧乏人に施すことだってできる! これは、必要悪なんだよ!」


「……嘘だ」

 俺は、静かに、しかし、はっきりと答えた。

「人を助けるのに、嘘はいらない」


「青臭えこと言うな!」

 カシムの声が荒くなる。


「じゃあ、どうすりゃよかったんだよ! お前の、あのヘドロ薬のままで、誰が救えた!? 俺の嘘があったから、人は助かった! 俺たちは、金を手に入れた! 誰も損してねえだろうが!」


 俺は、彼のその背中を見つめていた。

 もう、俺たちの見ている景色は違ってしまっている。

 彼は、光の中にいる。俺は、店の奥の暗がりの中にいる。


 彼が手に入れた光は、俺が子供の頃に見た、あの窓の向こうの、温かい光とは違う。

 ぎらぎらとした、偽物の光だ。


 ここじゃない。

 俺が、本当に探している答えは、ここにはない。


「俺は、もう、あの頃の俺じゃねえ。英雄カシム様だ」

 カシムは、店の窓から、煌びやかな街の灯りを見下ろした。


「この街だけじゃねえ。いつか、王宮にまで、この名を轟かせてやる。そしたら、ヴァレリウス様も、セラフィナも、俺を見る目が変わるはずだ……!」

 彼の目は、遠い夢を見ていた。


 俺は、彼のその背中に、静かに、名を呼んだ。

「カシム」


 俺の声に、彼は、夢から覚めたように、ゆっくりと振り返る。

「なんだよ、スケ。お前も、俺様の偉大な計画が聞きたくなったか?」

 彼は、にやりと笑った。


 俺は、その目を、まっすぐに見つめ返した。

 そして、はっきりと、告げた。


「俺は、この街を離れる」


 その一言で、部屋の空気が凍りついた。

 カシムの顔から、笑みが消える。


 彼の、酒で潤んでいた瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。

 宴の熱気も、英雄の傲慢さも、全てが吹き飛んだ、素のカシムがそこにいた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ