第70話:仮面の先にあるもの
英雄の宴は、毎晩のように続いた。
「いやあ、カシム殿! あなたこそ、この街の宝だ!」
「この『黒き生命の泉』があれば、我が商会も安泰ですな!」
店の扉の向こうから、カシムを称える声と、裕福な商人たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。
今日の宴の会場は、商人ギルドの長が開いてくれた、街で一番豪華なレストランらしい。
カシムは、英雄として祭り上げられ、街の有力者たちとの会食に明け暮れていた。
俺は一人、薄暗い店の奥で、薬草をすり潰していた。
石の乳鉢が、ゴリ、ゴリ、と乾いた音を立てる。その音だけが、俺の世界の全てだった。
俺は、もう宴には呼ばれない。カシムが、うまく言ってくれているのだ。「弟子のスケは、人見知りでして。一人で薬の研究をしている時が、一番幸せな奴なんです」と。
嘘だ。
俺は、あの場所が怖い。
人々の感謝と、称賛の視線。その全てが、俺の心を針で刺すように痛いからだ。
「……スケ君。お疲れ様」
店の裏口から、そっと声がした。
昼間、薬を届けに行った、貧民街の母親だった。彼女は、俺たちの店の掃除や、雑用を手伝ってくれるようになっていた。
「旦那がね、あんたたちの薬のおかげで、また仕事に行けるようになったんだ。本当に、ありがとう」
彼女は、小さな包みを俺に手渡した。中には、まだ温かい焼きたてのパンが入っている。
「夜食にでも、と思ってね。カシム様にも、よろしく伝えておいておくれ」
「……ありがとう」
俺は、か細い声で、それだけ言うのが精一杯だった。
彼女の、純粋な感謝の眼差し。それが、俺には、何よりも重い。
俺は、彼女に嘘をついている。俺は、彼女が思うような、健気な弟子などではない。
その正体は、彼女たちが最も忌み嫌うゴブリンなのだから。
母親が帰った後、俺は、もらったパンを一口だけかじった。
優しい味がした。だが、その味は、砂を噛むように、俺の喉を通っていかなかった。
夜が更け、カシムが上機嫌で店に帰ってきた。
高価な酒の匂いと、満足げなため息を部屋に撒き散らしながら。
「よお、スケ。まだ起きてたのか」
彼は、金貨が詰まった重い袋を、カウンターに放り出す。チャリン、と虚しい音がした。
「すごいぜ、今日の会食は。市長まで来てたんだ。俺に、名誉市民の称号を贈りたい、だとさ! はっ! 俺も、ついにここまで来たか!」
彼は、店の椅子にふんぞり返って座った。
その顔には、俺が初めて会った頃の三流魔術師の卑屈な影は、もうどこにもない。
自信と、傲慢さが、その顔に張り付いていた。
俺は、すり潰していた薬草から顔を上げた。
そして。
「カシム。俺たちは、いつまで、これを続けるんだ?」
俺の問いに、カシムの陽気な顔が、一瞬だけ固まった。
「……何言ってんだよ、スケ。始まったばっかりじゃねえか」
「貧民街の病気は、もう治った。俺たちの役目は終わったはずだ」
「終わりじゃねえ! 俺たちの伝説は、ここから始まるんだよ!」
カシムは立ち上がると、俺の前に立った。その目は、野心で爛々と輝いている。
「いいか、スケ。これは、ただの薬売りじゃねえ。俺たちは、この街の権力の中枢に食い込むんだ。この名声があれば、もっといい薬を作って、もっと大勢の人を助けられる! 金持ちから金を取って、貧乏人に施すことだってできる! これは、必要悪なんだよ!」
「……嘘だ」
俺は、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「人を助けるのに、嘘はいらない」
「青臭えこと言うな!」
カシムの声が荒くなる。
「じゃあ、どうすりゃよかったんだよ! お前の、あのヘドロ薬のままで、誰が救えた!? 俺の嘘があったから、人は助かった! 俺たちは、金を手に入れた! 誰も損してねえだろうが!」
俺は、彼のその背中を見つめていた。
もう、俺たちの見ている景色は違ってしまっている。
彼は、光の中にいる。俺は、店の奥の暗がりの中にいる。
彼が手に入れた光は、俺が子供の頃に見た、あの窓の向こうの、温かい光とは違う。
ぎらぎらとした、偽物の光だ。
ここじゃない。
俺が、本当に探している答えは、ここにはない。
「俺は、もう、あの頃の俺じゃねえ。英雄カシム様だ」
カシムは、店の窓から、煌びやかな街の灯りを見下ろした。
「この街だけじゃねえ。いつか、王宮にまで、この名を轟かせてやる。そしたら、ヴァレリウス様も、セラフィナも、俺を見る目が変わるはずだ……!」
彼の目は、遠い夢を見ていた。
俺は、彼のその背中に、静かに、名を呼んだ。
「カシム」
俺の声に、彼は、夢から覚めたように、ゆっくりと振り返る。
「なんだよ、スケ。お前も、俺様の偉大な計画が聞きたくなったか?」
彼は、にやりと笑った。
俺は、その目を、まっすぐに見つめ返した。
そして、はっきりと、告げた。
「俺は、この街を離れる」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
カシムの顔から、笑みが消える。
彼の、酒で潤んでいた瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。
宴の熱気も、英雄の傲慢さも、全てが吹き飛んだ、素のカシムがそこにいた。
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