第69話:感謝の重み
カシムの計画は、見事に成功した。
いや、成功という言葉では、足りないくらいだった。
翌日、カシムが街の衛兵詰所に「私が、あの薬を作った」と名乗り出ると、話は、俺たちの想像を遥かに超える速さと大きさで転がり始めた。
街の有力者たちは、渡りに船とばかりに、カシムのその言葉に飛びついた。
責任追及から人々の目を逸らすため、そして、「『仮面の救済者』という不気味な噂を打ち消す」ため、彼らは、公式の、分かりやすい『英雄』を必要としていたのだ。
カシムは、その役柄に完璧にはまっていた。
『カシム薬舗』は、一夜にして、街で一番の評判の店になった。
これまで、蜘蛛の巣が張っていた店の前には、朝から人だかりができている。
店の主を一目見ようという、野次馬。そして、病に苦しむ家族のために、あの黒い薬を求める、貧民街の人々。
「いやいや、私は当然のことをしたまでです!」
店のカウンターで、カシムは、生まれて初めて浴びるであろう、称賛の光に、満面の笑みで応えていた。
「伝説の師の教えを、この街の苦しむ人々のために役立てることができて、私も嬉しい!」
彼の口からは、練習してきたのであろう、英雄らしい言葉が、すらすらと紡がれていく。
俺は、人間の姿『スケ』として、その輪の中から少しだけ離れた場所で、薬草をすすり潰していた。
黙って、師の仕事を手伝う、健気な弟子。それが、今の俺の役割だ。
やがて、店の扉が開き、一人の、立派な身なりをした男が入ってきた。街の商人ギルドの長だと、カシムが後で教えてくれた。
「おお、あなたが、噂の若き天才、カシム殿か! この度のご活躍、ギルドとしても心より感謝申し上げる!」
男は、カシムの手を両手で握りしめた。
「これは、街からの、ささやかな感謝の印。どうか、お納めいただきたい」
彼がカウンターに置いたのは、金貨がずっしりと詰まった重い革袋だった。
「英雄カシム様、万歳!」
誰かが、そう叫んだ。店の中が、拍手と歓声で満たされる。
カシムは、得意満面の顔でその歓声に応えていた。
俺はその輪の中で、俯きながら愛想笑いを浮かべた。
その日の午後。
店の喧騒が、少しだけ落ち着いた頃。
あの、貧民街の夫婦が、店を訪れた。最初に、俺たちの薬を信じてくれた、あの二人だ。
すっかり元気になった妻は、俺たちの前に深々と頭を下げた。
「カシム様……本当に、ありがとうございました」
「あなた様は、私たちの、命の恩人です」
私たちは、金貨など持っていない。その代わりに、と、夫の方が、小さな木彫りの鳥を俺の前にそっと差し出した。
「こんなものしか、お礼ができませんが……。病気になる前は、こういう木彫りを作るのが仕事でして。あなたに」
カシムは差し出された手のひらサイズの鳥を受け取って、怪訝な顔をしている。
それは、素朴だが、羽の一枚一枚まで、丁寧に彫られている。作り手の温かい心が伝わってくるようだった。
心からの感謝の言葉。
純粋な、善意の贈り物。
それらが、俺の胸に、鉛のように重くのしかかった。
『違う』
俺は、心の中で、叫んでいた。
『感謝されるべきは、カシムじゃない』
『俺でもない。感謝されるべきは、スケだ。でも、スケなんて、どこにもいない』
俺は、この人たちを騙している。
この感謝は、偽りの俺に向けられたものだ。
俺が、人間の姿をしているから、彼らは、俺たちの嘘を信じてくれる。
あの果物屋の主人が見せてくれた親切も、この夫婦が向けてくれる感謝も、全て、俺が被った、人間の仮面に対するもの。
夜。
店を閉めた後、カシムは、買ってきた上等な酒を飲み、上機嫌で歌っていた。
「見たか、スケ! これが、英雄の見る景色だ! 金! 名声! 感謝! 全て手に入れたぞ!」
彼は、金貨を、天井に向かって放り投げては、それを浴びて、狂ったように笑っている。
「乾杯だ、相棒! 俺たちの勝利にな!」
カシムが、酒瓶を差し出してくる。
俺は、力なくそれを受け取った。
「どうした、スケ? 暗い顔して。お前も英雄の一人なんだぜ?」
俺が黙り込んでいると、カシムが、不思議そうな顔で尋ねてきた。
俺は、昼間にもらった、木彫りの鳥をじっと見つめていた。
「……カシム」
「俺たちは、正しいことをしているのか?」
俺の問いに、カシムの陽気な歌声がぴたりと止んだ。
彼は、一瞬だけ真剣な顔をしたが、すぐにそれを振り払うように豪快に笑った。
「正しいかどうか? 結果が全てだ! 貧民街の連中は助かった。俺たちは金と名声を手に入れた。誰も損してねえだろ! 難しく考えるなよ!」
そうかもしれない。
だが、俺の心は、少しも晴れなかった。
もうなんで悩んでいるのかもよくわからない。
俺は、自分の人間になった手を見る。
この手は、人々を救った。
その事実は、嘘で塗り固められている。
成功の、まさに中心にいるはずなのに、俺は、どうしようもなく孤独だった。
カシムの、陽気な歌声が、やけに遠くに聞こえる。
俺は、この街で、一体、何を手に入れたのだろうか。
そして、その代わりに、何を失ってしまったのだろうか。
もう何もわからない。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




