第68話:英雄の誕生
貧民街に、奇跡が起きた。
その噂は、まるで風のように、ポルタ・フィエラの街を駆け巡った。
「おい、スケ! 聞いたか!?」
数日後、酒場から上機嫌で帰ってきたカシムが、店の扉を開けるなり、大声で叫んだ。
「街中、あんたの噂で持ちきりだぞ! 『仮面の救済者』! 『泥水の奇跡』! いやあ、傑作だ! 俺の相棒が、いつの間にか伝説になっちまってる!」
彼は、俺の肩をバンバン叩きながら、腹を抱えて笑っている。
俺は、彼の興奮を、店の奥で静かに聞いていた。
人々が助かった。ただ、その事実だけが俺にとっては重要だった。
「だがな、スケ。話は、それだけじゃ終わらなかったんだ」
カシムは、笑いを収めると、声を潜めて続けた。
「貧民街の連中が、自分たちで病の原因を調べ始めたらしい。そしたら、突き止めちまったんだと。お前が言ってた通り、富裕層地区の排水が、井戸に流れ込んでたってことをな」
その一言に、俺は顔を上げた。
「おかげで、街のお偉方は大慌てよ」
カシムは、面白そうに、にやりと笑う。
「責任のなすりつけ合いだ。それに、得体の知れない『仮面の救済者』ってのが、奴らにとっちゃ不気味で仕方ねえらしい。自分たちの知らないところで、勝手に貧民を助けるような奴は、秩序を乱す危険人物だからな」
彼は、そこまで言うと、ぴたりと口を閉じた。
そして、ギラギラとした、野心に満ちた目で、俺をまっすぐに見た。
最初は、ただの悪ふざけのつもりだったのだろう。だが、彼は、街の噂の熱狂を肌で感じ、そして気づいてしまったのだ。自分たちが、とんでもない宝の山の上に座っていることに。
彼の中で、眠っていたはずの「欲」が、鎌首をもたげた。ここまで効果的だとは思っていなかった。英雄のような扱いをされるなんて、予想もしていなかったのだ。
「……スケ」
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
「これは、チャンスだ。俺たちの、人生を懸けた大勝負の時が来た」
俺は、黙って、彼の次の言葉を待った。
「俺が、名乗り出る」
カシムは、宣言した。
「俺が、奇跡の薬を開発した、天才薬師カシムだってな!」
「……だめだ」
俺は、すぐに、首を横に振った。
「お前が、こんな薬を作ったのが人間だとばれるとマズイって言ったろ」
俺の、至極まっとうな反論。広場での失敗を、もう忘れたのか。
だが、カシムの野心の炎は、そんな小さな矛盾など、とっくに焼き尽くしていた。
「この際、そんなことはどうでもいい!」
カシムが、俺の前に詰め寄る。その目は、本気だった。
「伝説の師から学んだとか適当ぶっこいとけばイケる! 見た目がなんだ! 結果が全てだ! あの薬は、現に、人を救ったんだからな!」
「だが、お前は作っていない」
「細かいこと言うなよ!」
彼は、俺の両肩を掴んだ。
「じゃあ、お前が名乗り出るのか? あの仮面を取って、『俺がやりました』って、街の連中の前に姿を晒すのか? それとも……ゴブリンの姿を、見せるのか? あの、親切な果物屋のおっちゃんの前に? お前を英雄だと噂してる、貧民街の連中の前に?」
その言葉が、俺の胸に、深く突き刺さった。
アンナの顔が、脳裏をよぎる。
俺は、固く、唇を噛み締めた。
俺が、何も言えないのを見て、カシムは、静かに、俺の肩から手を離した。
「……スケ。俺は、お前が作った薬の、本当の価値を、この世に知らしめたい。ただの『泥水』で終わらせたくねえんだ。そのためには、俺の『物語』が必要なんだよ」
彼の言葉は、ただの野心だけではなかった。
俺たちの、誇りを懸けた戦いのための言葉だった。
俺は、ゆっくりと、一度だけ頷いた。
それしか、できなかった。
「……よし!」
カシムの顔が、ぱあっと明るくなる。
彼は、あの時のように、俺の肩を、今度は、最高の相棒を称えるように力強く叩いた。
「決まりだ! 見てろよ、スケ! 俺は、この街の英雄になる! いや……」
彼は、にやりと笑って、言った。
「俺たちで、英雄になるんだ!」
俺は、彼のその笑顔を、ただ、見つめ返していた。
人々の命を救った、名もなき善意。
それが今、カシムの嘘によって、名声と、金のための物語へと、作り変えられようとしている。
俺は、その共犯者になるのだ。
人間の仮面は、俺が思っていたよりも、ずっと重いみたいだ。
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