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第67話:仮面の救済者


 カシムの、悲痛な叫びが、店の静寂に吸い込まれていく。

 彼は、カウンターに突っ伏して、もう動かなかった。絶望が、その背中を重くしていた。


 俺の、二つの顔。その残酷な矛盾が、俺を縛りつける。

 だが、俺の脳裏には、あの母親の涙に濡れた顔が焼き付いていた。腕の中で弱っていく子供の姿も。

 この街のどこかで、今も、同じように苦しんでいる人々がいる。

 俺は、薬の入った壺をカウンターに置いた。

 そして、決断する。


「……俺が、行く」

「……あ?」

 カシムが、カウンターから、虚ろな顔を上げた。


「行くって、どこへだよ……? もう、どうしようもねえだろ……」

「この薬を、届けに行く」


 俺の言葉に、カシムは、何を言っているんだ、という顔をした。

 俺は、彼の返事を待たずに、行動を始めた。


 店の奥から、王都を出る時にセラフィナがくれた、あの丈夫な旅人のローブを引っ張り出す。フードが、顔を深く隠してくれる。

 それだけでは、足りない。


 俺は、薬草を包むために使っていた、黒い布を手に取ると、それで、顔の下半分を覆った。

 最後に、壊れた木箱の板切れを拾い、ナイフで削る。目と鼻の部分に、雑な穴を開けただけの、粗末な仮面。


 そして、一番大事なもの。

 俺は、羊皮紙の切れ端と、炭の棒を手に取った。

 そこに、エリアス先生の書斎で覚えた、拙い文字で、一言だけ書き記す。


『くすり』


「おい、スケ……お前、その格好……何する気だ?」

 カシムが、呆然と俺を見ている。

 俺は、その仮面を顔に当て紐で結んだ。

 声が、仮面の下で、くぐもって響く。


「スケじゃない」

「はあ?」

「スケじゃない。ゴブスケでもない。……誰も、知らない者だ」


 俺は、店の棚から、作り置きしてあった黒い薬の壺を、ありったけ、革袋に詰め込んだ。そして、書き上げた『くすり』の札を、何枚も懐に入れる。

 カシムに背を向けて、店の裏口へと向かう。


「待てよ、スケ! 危ねえって!」

 カシムの制止を振り切り、俺は、夜の闇へと、一人で足を踏み出した。


 名声はいらない。金もいらない。

 ただ、救える命があるのなら。


 俺は、夜の貧民街を、駆け巡る。

 ゴブリンの目で確かめた、あの井戸の周り。病の匂いが、特に強く漂っていた地区。

 音もなく貧民街を駆け巡り、病に苦しむ家を探していく。


 窓から漏れる、か細い呻き声。咳の音。

 見つけた。


 俺は、その家の扉の前に、そっと降り立つ。

 革袋から薬の壺を一つ、取り出す。そして、懐から小さな羊皮紙の札を一枚。


 ノックはしない。声をかけることもしない。

 ただ、その壺の横に、『くすり』と書かれた札を添えて静かに置くだけ。


 俺は、その家から離れると、すぐさま次の家を探した。

 一軒、また一軒と、俺は、名もなき救済者として、夜の闇に、命の種を蒔いていく。


 夜が明け、貧民街に、朝日が差し込み始めた頃。

 一人の男が、自分の家の扉を開けて、ため息をついた。彼の妻が、もう何日も、あの『怠け病』で寝込んでいるのだ。

 その時、彼は、自分の足元に、小さな壺と一枚の汚れた紙切れが置かれているのに気づいた。


「……なんだ、こりゃ?」

 彼は、訝しげに、その壺を手に取る。紙切れには、子供が書いたような拙い字で、『くすり』とだけ書かれていた。


 コルクを抜くと、強烈な、泥の匂いが鼻をついた。

「うわっ! ヘドロか、こりゃ……!」

 彼は、悪質ないたずらか、呪いの類だと思った。舌打ちをすると、壺と紙切れを、路地裏の汚水溜めに捨てようと、腕を振り上げた。


 まさに、その瞬間だった。

 家の中から、妻のか細い呼吸が、ふっと途切れる音がした。

「おい! しっかりしろ!」

 男は、壺を放り出して部屋に駆け込む。


 ベッドに横たわる妻の胸は、動いていない。顔からは、完全に血の気が失せていた。

 医者を呼ぶ金はない。衛兵は、助けてくれない。ただ、腕の中で、命の火が消えていくのを見ているだけ。


 完全な絶望。

 その中で、男は、自分が捨てようとした、あの不気味な壺を思い出した。

 気休めですらない。狂気の沙汰だ。

 だが、何もしなければ、妻は確実に死ぬ。


「くそっ!」

 男は叫びながら、汚水溜めの寸前で転がっていた壺を拾い上げる。

 彼は震える手で、壺の中の黒い液体を匙にすくい、動かなくなった妻の口へと、祈るように流し込んだ。


 数時間後。

 男が、疲れ果ててベッドの脇で突っ伏していると、背後から、か細い声がした。

「……あなた……?」

 男は、弾かれたように顔を上げる。


 振り返ると、そこには、血色の良い顔で、ベッドから半身を起こしている、妻の姿があった。

 彼女は、不思議そうな顔で、自分の夫を見ている。


「……なんだか……お腹が、すいた……」


 それは、奇跡だった。

 その日、貧民街の、あちこちで、同じ奇跡が起きていた。

 扉の前に置かれていた、謎の壺と、拙い字で書かれた『くすり』の札。


 沼のヘドロのような、気味の悪い液体。

 だが、それを飲んだ者は、皆、嘘のように、元気を取り戻していた。


「うちの親父も、起き上がれるようになったんだ!」

「誰が……? 誰が、こんなことを……?」

「分からない。だが、誰かが、俺たちを見捨てずに、助けてくれたんだ……!」


 人々は、顔を見合わせ、戸惑い、そして、静かな感動に包まれていた。

 彼らは、まだ知らない。


 その奇跡が、彼らが最も忌み嫌う、ゴブリンの知識によってもたらされたものであることなど、知る由もなかった。

 貧民街に、一つの都市伝説が生まれた、最初の朝だった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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