第66話:誰がための薬
夜明け前の、一番深い闇の中。俺は、店の裏口に音もなく滑り込んだ。
人間の少年の姿に戻る。変異魔法は、もう慣れたものだった。
「スケ!」
店の中で、カシムが椅子から飛び上がった。彼は、一睡もせずに、俺の帰りを待っていたらしい。その顔には、安堵と、隠しきれない恐怖の色が浮かんでいる。
「無事だったか! 心配したんだぞ! 何か、分かったのか!?」
俺は、彼の質問に、静かに頷いた。
「……ああ。原因は、分かった」
俺は、貧民街の井戸のこと、富裕層地区からの排水のこと、そこに混じっていた毒を持つ植物の根のことを説明した。もちろん、俺がゴブリンの姿に戻って突き止めた、ということは伏せて。
「金持ちの庭の排水が、貧乏人の井戸に……?」
カシムは、信じられないという顔で絶句した。
「なんてこった……。そりゃあ、医者も衛兵も、まともに取り合うはずがねえ。原因が自分たちだって、分かってるからか……!」
彼は、人間社会の腐敗した一面を目の当たりにして、怒りに拳を震わせている。
だが、俺には、怒っている暇などなかった。
「カシム。俺は、特効薬を作れると思う」
「本当か、スケ!?」
「ああ。あの毒は特殊だ。普通の薬草では、中和できない。だが、俺は、その方法を知っている」
俺は、すぐさま調合に取り掛かった。
店の奥、俺だけの作業場。
石の乳鉢に、カシムが集めてきた薬草と、俺がこの街の湿った石垣の隙間で見つけ出した、特殊な苔を入れる。
エリアス先生に教わった、高等な薬草学。
そして、ゴブリンだけが知る自然の裏の知識。
その二つが、俺の中で一つの形になっていく。
俺は、乳鉢をすり潰しながら、あの母親と息子の姿を思い出していた。
助けたい。
ただ、その一心で、俺は、自分の持つ全ての知識を、その中に注ぎ込んだ。
数時間後。
朝日が、店の汚れた窓から差し込み始める頃。
それは完成した。
俺の最高傑作。
壺の中には、やはり、強烈な腐敗臭を放つ、緑がかった黒い泥のような液体が静かに揺蕩っていた。
見た目は、最悪だ。
だが、その中には、俺が知る限り、最も強力な生命力が凝縮されている。
俺は、その壺を、カシムの元へと運んだ。
彼は、徹夜で俺の作業を見守り、今は、カウンターでうたた寝をしていた。
「カシム。できた」
「……んあ? おお……できたのか……!」
彼は、眠い目をこすりながら、俺が差し出した壺を覗き込む。
そして、前と同じように、その顔が、希望から絶望へと一瞬で変わった。
「……スケ。お前……」
彼の声が、震えている。
「……これは、あの広場で見せた薬より、もっとひどいぞ……。腐った魚の内臓みたいな匂いがする……」
「だが、効く」
俺は、はっきりと答えた。
「これがあれば、みんな、助かる」
「だから、その前に問題があるんだよ!」
カシムが、叫んだ。
それは、怒りというより悲痛な叫びだった。
彼は、自分の髪を、ぐしゃぐしゃと掻きむしる。
「これを、どうやって人々に渡すんだ!?」
「……あの母親のように、信じてもらえれば」
「無理だ! あの時は、目の前で子供が死にかけてたからだ! 奇跡みたいなもんだよ! 普通の人間が、こんなもんを、金払って買うと思うか!? 無料で配ったって、誰も受け取らねえよ!」
カシムは、店の入り口を指差した。そこには、『カシム薬舗』という、俺たちの看板が掛かっている。
「この店は、『人間のカシムと、その弟子のスケ』の店なんだ。その店から、こんな、ゴブリンが作ったとしか思えねえような代物が出てきたら、どうなる!?」
彼の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「もしだぞ!この薬が効かなかったら、ただのペテン師として、この街を追い出されるぞ! あの母親と子供を救った英雄どころか、人々を騙して、泥水を売りつけようとした、最悪の詐欺師になるんだ!」
俺は、何も言い返せなかった。
カシムの言う通りだったからだ。
この薬は、あまりにも、「ゴブリン」らしすぎた。
自然から、そのままえぐり出してきたような、荒々しい生命力。
それは、人間たちが求める、清潔で、美しく、そして「常識的」な薬とは、かけ離れすぎていた。
俺の、人間の仮面。
それは、俺を人間社会の中で守ってくれる、大事な鎧。
だが、今、その鎧が、俺が人々を救うための、最大の障害となっていた。
『スケでは、この薬は渡せない』
『スケは、こんな薬を作らない』
『これを作ったのは……ゴブリンの、俺だ』
俺は、自分の手の中にある、命を救うための「汚物」を見つめた。
人間の手。少年の手。
だが、この手が生み出したものは、この人間社会では、受け入れられない。
俺は、自分が持つ二つの顔の、その残酷な矛盾に、ただ、立ち尽くすしかなかった。
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