第65話:ゴブリンの目と鼻
母親の、震える手が壺を受け取った。
彼女は、俺と、腕の中の息子を一度だけ見比べると、覚悟を決めたように、その黒い薬を子供の唇へと、そっと流し込んだ。
一口、二口。
子供は、か細い力で、こくりと飲み下す。
長い沈黙。
俺とカシムは、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
やがて。
死人のように青白かった子供の頬に、ほんのわずかに血の色が差した。
浅く途切れがちだった呼吸が、少しだけ深くなる。
劇的な回復ではない。だが、その変化は誰の目にも明らかだった。
「……あ……ああ……!」
母親の目から、涙がとめどなく溢れ出す。
彼女は、俺たちの前に、がくりと膝をつくと、何度も頭を下げた。
「ありがとう……! ありがとう……!」
彼女は、懐から、なけなしの銅貨を数枚、カウンターに置くと、まだぐったりとしているが、確かに生気を取り戻した息子を抱きしめ千鳥足で去っていった。
「……やったな、スケ」
カシムが、俺の肩を叩いた。その声はまだ興奮で震えている。
「初めての、客だ。それも人助けだぜ! 俺たち、最高の薬師コンビじゃねえか!」
彼は、カウンターに置かれた銅貨を、宝物のように指で弾いている。
だが、俺の心は、少しも晴れなかった。
助かったのは、一人だけだ。
あの母親が言っていた。「医者は、誰も見てくれない」。
貧民街には、まだ、同じように苦しんでいる人間が大勢いるはずだ。
「カシム。これは、ただの病気じゃない」
「はあ? どういうことだよ」
「原因があるはずだ。それを、止めなければ、終わらない」
俺は、決意を固めた。
「俺は、今夜、貧民街へ行く」
その言葉に、カシムの陽気な顔が一瞬で凍りついた。
「……馬鹿野郎! お前、本気で言ってんのか!?」
彼の声が裏返る。
「夜の貧民街なんて、衛兵だって寄り付かねえんだぞ! 盗賊や人殺しが、うようよしてる! お前みたいなガキが行って、どうなるか……!」
「行かなければ、もっと人が死ぬ。俺は、原因を知っている気がする」
「だからって、一人で……!」
「一人じゃない」
俺は、それだけ言うと、カシムの制止を振り切り、店の外へと出た。
夜。
俺は、人間の少年の姿のまま、貧民街へと足を踏み入れた。
そこは、昼間とは比べ物にならないほど、暗く、冷たい空気が淀んでいた。
建物の影は、昼間よりもずっと深く、その闇の奥から、俺を値踏みするような、いくつもの視線を感じる。
カシムの言った通りだ。ここは危険な場所だ。
俺は、誰にも気づかれないよう、一番暗く汚い路地裏へと滑り込んだ。
ここで、俺は仮面を脱ぐ。
目を閉じ、変異魔法を発動させる。
体が、見慣れたゴブリンのそれへと戻っていく。
その瞬間、俺の世界は、完全に変わった。
獣じみた感覚が、研ぎ澄まされていく。
人間の目では見えなかった、闇の奥の奥まで、はっきりと見える。
人間の耳では聞こえなかった、遠くのネズミの足音すら、拾い上げることができる。
そして、何よりも、鼻。
人間の鼻では感じ取れなかった、無数の匂いが、俺の脳を刺激した。
腐ったゴミの匂い。淀んだ水の匂い。人々の、絶望の匂い。
そして、病の匂い。
だが、それだけじゃない。
その全ての匂いに混じって、ごくごく微かな、ある匂いが漂っていた。
甘いような、それでいて、どこか腐った植物の根のような不自然な匂い。
故郷の森で嗅いだ、あの「魂喰らいの呪い」のキノコと、よく似た匂いだ。
俺は、その匂いを頼りに、闇の中を駆け出した。
ゴブリンの体は、人間のそれより、ずっと軽く俊敏だ。
路地から路地へと飛び移り、獣のように、音もなく、貧民街の奥深くへと進んでいく。
匂いは、だんだんと強くなっていく。
そして、俺は、その発生源へとたどり着いた。
貧民街の一番低い土地にある、共同井戸。
この地区の住民は、皆、この井戸の水を飲んで暮らしているのだろう。
匂いは、この井戸からだ。
俺は、井戸の縁に鼻を近づけた。間違いない。水そのものから、あの匂いがする。
井戸の周りを見渡す。すると、井戸の石垣の隙間から、ごく少量の水が、染み出している場所を見つけた。
それは、井戸とは別の場所から流れ込んでいる、汚染源。
俺は、その小さな水の流れを遡った。
流れは、貧民街の坂を上り、やがて、裕福な者たちが暮らす、富裕層地区の高い壁際へとたどり着いた。
壁の、一番下の部分。そこに排水溝の鉄格子がはまっている。
その隙間から、問題の水が、ちょろちょろと流れ出していた。
そして、その排水溝の奥から、ひときわ強く、あの匂いが漂ってくる。
俺は、鉄格子に顔を近づけ目を凝らした。
排水溝の、ヘドロに混じって、白く、繊維質な、植物の根の切れ端が大量に捨てられている。
『……これか』
エリアス先生の書斎で読んだ、ある魔導植物図鑑の、一ページが蘇る。
『銀涙花』。
富裕層だけが、その美しさを楽しむために育てる、極めて希少な観賞用の花。
その花は無害。だが、その根には、ごく微量の特殊な毒が含まれている。
健康な者には何の影響もない。だが、体の弱い者、栄養の足りない者だけが、その毒にやられ、ゆっくりと生命力を奪われていく。
俺は、全てを理解した。
これは、やっぱり呪いなんかではない。
この街の仕組みそのものが生み出した、悲劇。
富裕層地区の庭師が、刈り取った花の根を排水溝に捨てた。
その毒が、排水路を伝い貧民街の井戸へと流れ着いた。
俺は、ゴブリンの姿のまま、闇の中で天を仰いだ。
眼下には、静かに死んでいく貧民街が広がり、頭上には、何事もなく煌びやかな光を放つ、富裕層の屋敷がそびえ立っている。
俺は、答えを見つけた。
だが、この答えを、一体、誰に伝えればいいというんだ?
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