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第64話:銀貨の影

 

 広場での大失敗から、数日が過ぎた。

 俺たちの店は、墓場のような静けさに戻っていた。


「……もう、終わりだ」

 店のカウンターに突っ伏したまま、カシムが幽霊のような声で呟いた。


「俺の才能も、お前の知識も、あの『見た目』の前じゃ、何の役にも立たねえ。俺たちは、この街で、野垂れ死ぬんだ……」

 彼は、あの日以来、完全に心を折られていた。


 時々、思い出しては「毒飲み野郎……」と俺を罵り、すぐにまた絶望の淵に沈んでいく。


 俺は、そんな彼を横目に、黙々と店の奥で薬草を仕分けていた。

 失敗はした。だが、何も終わってはいない。

 俺の作った薬の価値は、変わらないのだ。ただ、それを証明する方法がなかっただけ。


『……どうすれば、伝わる?』


 人間は、見た目に騙される。匂いに惑わされる。そして、常識という見えない壁に心を縛られている。

 エリアス先生の書斎にあった、どんな難解な魔導書よりも、人間という生き物のほうが、ずっと複雑で、厄介だった。


 そんな、重苦しい空気が続いていた、ある日の午後。

 カシムが、珍しく、街の酒場で仕入れてきた噂話に、耳を傾けていた。普段なら、聞き流すところだ。だが、その日の話は、俺のゴブリンとしての本能を、わずかに刺激した。


「……で、聞いたかよ。最近、貧民街のほうで、妙な病気が流行ってるらしいぜ」

 カシムが、エールを飲みながら、俺に話しかけてきた。憂さ晴らしなのだろう。


「なんでも、『怠け病』って呼ばれてるらしい。熱が出るわけでも、腹を壊すわけでもねえ。ただ、だんだん体の力が抜けて、起き上がれなくなるだけなんだと」


「怠け病……?」


「ああ。だから、街の医者も、衛兵も、誰もまともに相手にしねえんだ。『貧乏人が働きたくねえだけだろう』ってな。ひでえ話だぜ」


 カシムは、他人事のようにそう言った。

 だが、俺は、その症状に、奇妙な既視感を覚えていた。

 体の力が、抜けていく。ただ、それだけ。


『……どこかで、見たことがある』


 俺の脳裏に、故郷の森の光景が蘇る。

 薄暗い湿った洞窟。その奥にだけ生える、青白く光る不気味なキノコ。


 あのキノコの胞子を吸い込んだ、ネズミや、鳥の雛。体の小さな弱い生き物だけが、その毒にやられた。


 外傷はない。苦しんだ様子もない。ただ、眠るように動かなくなり、やがて、死んでいく。

 族長たちは、それを「魂喰らいの呪い」と呼び、ひどく恐れていた。


「……その病気、死ぬのか?」

 俺は、カシムに尋ねた。


「さあな。死んだって話は、まだ聞かねえな。ただ、みんな、どんどん弱っていく一方らしい。貧乏人は、医者にかかる金もねえからな。祈るくらいしか、できねえのさ」


 その夜、店の奥で、一人俺は地図を広げていた。

 ポルタ・フィエラの、詳細な地図。カシムが、いつか金持ちの客が来た時、道案内ができるようにと壁に貼っていたものだ。


 貧民街。それは、街の最も低い土地、古い水路が集中する日の当たらない場所に広がっている。


『……弱い生き物だけを狙う、呪い』


 俺の胸騒ぎは、どんどん大きくなっていった。

 これは、ただの病気じゃない。何かがおかしい気がする。


 翌日の昼過ぎだった。

 店の扉が、勢いよく開けられた。

 俺とカシムは、びくりと体を震わせる。


 そこに立っていたのは、顔中を汗と涙でぐちゃぐちゃにした、若い女だった。貧民街の住民だろう。その腕には、ぐったりとした子供が抱かれている。

 昨日、カシムが話していた病気。その現物が、俺たちの目の前に突然現れたのだ。


「頼みます……! 何でもいい! この子に、何か、薬を……!」

 女は、カウンターにすがりつくようにして懇願した。


「医者は、誰も見てくれない! 衛兵は、追い払うだけなの! あんたたち、薬師なんでしょ!? 助けて!」


 カシムは、その剣幕に、完全にうろたえていた。

「お、奥さん、落ち着いて……! 症状は……!?」

「分からない! 三日前から、急に元気がなくなって……! 今じゃ、もう、ほとんど動かないの!」


 俺は、黙って、子供の顔を覗き込んだ。

 青白い顔。色のない唇。浅くか細い呼吸。

 間違いない。

 故郷の森で見た、あの呪いだ。


 俺は、店の奥へと駆け込んだ。

 そして、棚の奥から一つの壺を取り出す。

 あの日、カシムに「沼のヘドロ」と罵られた、あの黒い薬。


 俺は、母親の前に、その壺を突き出した。

「……これを」


 母親は、壺の中身を一瞥すると、顔を恐怖に引きつらせた。

「な……なんなの、これは……! ど、毒じゃないの……!」


「違う! これは、薬なんだ!」

 カシムが、必死に叫ぶ。

 だが、母親は、俺たちを人殺しでも見るかのような目で睨みつけた。


 俺は、もう何も言わなかった。

 言葉が通じないなら行動で示すまでだ。

 俺は、壺のコルクを抜くと、その黒い液体を、ためらうことなく自分の口へと流し込んだ。


 ごくり、と。

 強烈な土の匂いと生命力の味が喉を焼く。


 母親も、カシムも、息を呑んで俺を見ていた。

 俺は、空になった壺をカウンターに置くと母親に向き直った。


 そして、店の奥の棚を指差した。

 まだ、同じ薬がいくつか残っている。


「……信じてくれ」

 俺の、心の底からの声だった。


 母親は、腕の中で、ますます弱っていく我が子と、俺の顔を震えながら見比べた。

 その瞳には、絶望と、そして、ほんのわずかな光が揺れていた。

 俺は、この街の光と影、その深い裂け目を、今、目の当たりにしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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