第63話:常識という壁
『カシム薬舗』の看板を掲げてから、一週間が過ぎた。
そして、客は、一人も来なかった。
「……まあ、まだ一週間だ」
店のカウンターで、カシムが腕を組みながら、自分に言い聞せるように呟いた。
「隠れた名店ってのはこういうところで発見されるもんだろ……。みんな、まだこの店の価値に気づいてねえだけだな」
「そもそも発見できないのが、問題じゃないのか……」
俺は、店の奥で薬草をすり潰しながら、事実だけを口にした。
カシムの強がりの仮面が、ぴしりと音を立てて割れた。
「うっ……! うるせえ! 分かってるよ!」
彼は、カウンターに突っ伏すと、苛立った声で叫んだ。
「どうしたら良いかわかんねぇから、こうして悩んでるんだろうが!」
店の棚には、俺が森で採ってきた薬草や、それを使って調合した薬が並んでいる。だが、その棚を眺める者は、埃と、虫だけだった。
俺は、決意した。俺が持てる、最高の知識と技術を注ぎ込んだ、究極の薬を作ろう。それさえあれば、と。
半日後。それは、完成した。
小さな壺の中に、黒々とした、泥のような液体が、ぽつり、ぽつりと、生き物のように気泡を立てている。俺は、その壺を手に、店のカウンターへと向かった。
「カシム。できた」
「ん? おお、何がだ?」
「すごい薬だ。どんな疲れも、一瞬で治る」
俺は、自信満々で、その壺を彼の目の前に置いた。
カシムは、壺の中身を覗き込むと、その顔が、期待から、困惑へ、そして純粋な恐怖へと変わっていく。
「……スケ。これは、なんだ……?」
「薬だ。最高の、滋養強壮剤」
「薬……?」
カシムは、もう一度、壺の中の黒く泡立つ液体を見た。そして叫んだ。
「こんな沼のヘドロみたいな薬、誰が買うかァッ!!」
彼の絶叫が、静かな店に虚しく響き渡った。
「いいか、スケ! 薬ってのはな、効くかどうかの前に、まず、手に取ってもらわなきゃ、始まらねえんだよ! 綺麗な色をしてて、いい匂いがしなきゃダメなんだ! お前、病人に泥水飲ませる気か!」
「泥水じゃない。最高の薬だ」
「だから! そうは見えねえだろうが!」
カシムの言葉に、俺は、何も言い返せなかった。
「見た目! 匂い! 信頼! 人間社会は、そういうもんで動いてんだ! お前のその、ゴブリンの常識は、ここでは通用しねえんだよ!」
ゴブリンの、常識。その言葉が、俺の胸に重く突き刺さった。
俺が、良かれと思ってやったこと。正しいと信じていた知識。それが、ここでは、何の役にも立たない。ただの「非常識」でしかないのだ。
沈黙に耐えきれなくなったように、カシムが、ついにカウンターを拳で叩いた。
「……もう、待ってるだけじゃ埒が明かねえ」
彼は、決意を固めた目で、俺を見た。
「こうなったら、こっちから仕掛けるぞ。おい、スケ」
「……どうするんだ」
「決まってるだろ。魚がいねえなら、魚がいる場所に行くんだよ。一番活きのいい魚がいる、な!」
彼の目に、いつもの詐欺師じみた輝きが戻っていた。
「広場で宣伝でもしてくるか。商品を寄越せ」
俺は、例の、黒く泡立つ薬が入った壺を持ってきた。カシムは、店のガラクタの中から、空の水晶瓶を取り出すと、その中身を慎重に移し替える。だが、透明なガラス瓶の中で、沼のヘドロのような液体は、その醜悪さを、より一層際立たせていた。
「……最悪だ」
カシムは天を仰いだが、すぐに気を取り直すと、その瓶を懐にしまい込んだ。
「売るんじゃねえ、売ってみせるんだよ! この俺様の、三寸の舌でな! ついてこい、スケ! お前は黙って、俺の横で天才弟子のフリしてりゃいい!」
俺たちは、ポルタ・フィエラの中心にある中央広場へと向かった。
カシムは、広場の噴水の縁に立つと、木箱の上に飛び乗り、朗々と声を張り上げた。
「さあさあ、お立ち会い! 薬師カシムによる、奇跡の霊薬のご紹介だ!」
何事かと、十数人の野次馬が、俺たちの周りに集まってくる。
カシムは、懐から、あの水晶瓶を取り出し、高々と掲げた。
「これぞ、伝説の魔術師より伝わる、秘伝の滋養強壮剤! その名も、『黒き生命の泉』!」
集まった人々は、カシムが掲げた瓶に、興味津々の目を向ける。だが、瓶の中身が、どす黒い黒い液体だと分かると、その表情は、一様に、困惑と疑念に変わっていった。
「……おい、なんだ、あれは」
「泥水じゃないのか?」
「怪しい……」
人々の、ひそひそ声が聞こえてくる。カシムは、それに気づかないフリをして、さらに声を張り上げた。
「見たまえ、この深く、力強い黒を! 大地の生命力が、凝縮された色だ! さあ、そこのお父さん、一杯どうかな!? 銀貨一枚で、十年は若返ることを、この俺様が保証しよう!」
カシムが、一番近くにいた男に、瓶を差し出す。男は、一歩、後ずさった。
「い、いらねえよ! そんな気味の悪いもん!」
その一言が、引き金だった。群衆から、一斉に、嘲笑が巻き起こる。
「そうだ、そうだ! 詐欺師だ!」
「衛兵を呼べ!」
「泥水売りつけようとしてやがる!」
カシムの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「ま、待て! 君たち! 本物の価値が分からんのか!」
「価値があるのは、お前のその口だけだな、詐欺師さんよ!」
誰かがそう言うと、広場は大きな笑いに包まれた。
彼の自信に満ちた弁舌も、圧倒的な「見た目の悪さ」の前では、何の力も持たなかった。
人々は、もう俺たちに興味を失い、蜘蛛の子を散らすように、それぞれの日常へと戻っていく。
あっという間に、俺たちの周りには、誰もいなくなった。
後に残されたのは、中身の入ったままの水晶瓶と、呆然と立ち尽くす俺たち二人だけ。
噴水の、水が落ちる音だけが、やけに大きく響いていた。
カシムは、木箱の上で、がっくりと膝をついた。
俺たちの、最初の宣伝は、けんもほろろに失敗したのだった。
俺は、自らの知識が、この人間社会では全く通用しないという、新しい壁に直面していた。
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