第62話:薬師スケ、店を開く
あのリンゴの味は、甘くて、少しだけ苦かった。
俺は、人間の仮面の重さを知り、そして、カシムという相棒の軽薄さに、少しだけ救われていた。
ポルタ・フィエラに来てから、数日が過ぎる。
俺たちは、街で一番安い、馬小屋の匂いがする宿屋に部屋を取っていた。
「おい、スケ! いつまでもこんな薄暗い部屋で、くすぶってるわけにもいかねえだろ」
ベッドの上で、カシムが地図を広げて叫んだ。
「俺、いい場所を見つけたんだ! 俺たちの城を築くための、最高の場所をな!」
「城……?」
「まあ、見てろって!」
カシムに腕を引かれ、俺が連れて行かれたのは、大通りから外れた、裏路地だった。日の当たらない、建物の隙間みたいな場所。その一番奥に、古びた空き店舗が、口を開けていた。
扉は外れかけ、窓ガラスには蜘蛛の巣が張っている。
「どうだ! 最高の立地だろ?」
カシムは、胸を張って言った。
「人通りはねえから、お前の顔がジロジロ見られる心配もねえ。家賃も、たぶん破格だ!」
俺は、廃墟にしか見えないその建物を、ただ黙って見つめていた。
「……カシム。ここは、店じゃない。ただの、壊れた箱だ」
「これから店にするんだよ! お前にはロマンってもんがねえのか!」
カシムは、すぐに建物の持ち主だという、大家の爺さんを見つけ出してきた。
「家賃は銀貨50枚だ。びた一文まけねえぞ」
大家は、俺たちを、汚いものでも見るかのような目で睨みつける。
「まあまあ、大家さん、そう言わずに!」
カシムは、少しも臆することなく、その肩に馴れ馴れしく手を置いた。
「俺たちは、しがない旅の薬師でしてね。この子の、この才能! あんたの持病の腰痛も、きっと……」
「口のうまい若造め。金がないなら、とっとと失せろ」
「金なら、ここに」
俺は、カシムの言葉を遮り、懐から、王都で稼いだ金貨が詰まった袋を取り出した。
俺が人間の少年の姿で、金貨の袋を持っている。その光景に、大家の目の色が変わった。
カシムは、俺の行動に一瞬驚いたが、すぐに状況を理解し、芝居がかった咳払いをした。
「……というわけでしてね。我々は、先立つものは、いくらか持ち合わせているのです。これを、半年分、前金で」
カシムが、金貨を数枚、大家の汚れた手のひらに乗せる。
大家の態度は、一瞬で変わった。
「……ふん。まあ、好きにするがいいさ」
こうして、俺たちは、王都で稼いだ資金を元手に、この街での生活基盤を手に入れた。
その日から、俺たちの仕事が始まった。
カシムは、大家との交渉や、薬師ギルドへの登録といった、表向きの手続きを全て引き受けてくれた。 俺は、その間、ひたすら店の掃除に明け暮れた。
床を掃き、壁を磨き、壊れた棚を修理する。
自分の居場所を、自分の手で作っていく。その作業は、不思議と、俺の心を落ち着かせた。
数日後、店は、なんとか人が住めるくらいの姿になった。
その夜、カシムは、真剣な顔で俺に向き直った。
「いいか、スケ。ここからが重要だ」
彼は、俺たちの役割分担を、はっきりと宣言した。
「俺が、表向きの店主で、お前は俺の弟子だ。人前に出るときは、お前は『スケ』。口数は少なく、ミステリアスな天才弟子って設定でいく」
「なぜ、俺が弟子なんだ?」
俺は、素直な疑問を口にした。
「薬草の知識は、俺のほうが……」
「馬鹿野郎!」
カシムは、俺の頭を、ぽかりと叩いた。
「お前みたいなガキが店主やってて、誰が信用するんだよ! それに、お前はまだ人間社会の常識ってもんが分かってねえ。俺が、お前の盾になってやるんだよ。お前は、店の奥で、薬を作ることに集中しろ。それが、俺たちのやり方だ」
その言葉は、乱暴だったが、どこか温かかった。
彼は、俺を、守ろうとしてくれている。
「……分かった」
俺は、小さく頷いた。
「でも、盾なら、俺のほうが強い」
「そういうことじゃねえんだよ!」
翌日、店の入り口に、一枚の、粗末な木の看板が掲げられた。
カシムが、拙い字で書いた、『カシム薬舗』という文字。
「どうだ、スケ! なかなか、様になってるだろ!」
「……字が、曲がっている」
「うるせえ! 味があるって言え!」
俺たちの、新しい生活が、ここから始まる。
俺が初めて手に入れた、人間社会での『役割』。
それは、『薬師の弟子スケ』という、仮の姿。
だが、俺がこれから作る薬は、本物だ。エリアス先生に教わった、確かな知識。
その事実だけが、俺の胸の中で、小さな誇りのように、温かかった。
この生活は、順風満帆に始まるように、俺には思えた。




