第61話:見知らぬ街、見知らぬ顔
王都を後にしてから、俺たちの旅は十日ほど続いていた。
街道を歩き、野宿を繰り返す。
「おい、スケ。疲れたか?」
隣を歩くカシムが、俺の顔を覗き込む。
「いや……平気だ」
「平気なもんかよ。お前のその『人間の姿』、まだ慣れねえんだろ。マナも使うし、結構疲れるはずだぜ」
彼の言う通りだった。
俺は、旅の間、来る日も来る日も変異魔法の修行を続けた。
最初は、人間の姿になるだけで、全身のマナを使い果たしそうになった。だが、繰り返すうちに、だんだんとコツが掴めてくる。今では、半日ほどなら、無理なく人間の姿を保てるようになっていた。だが、それは、常に意識のどこかで、マナを練り続ける、ということでもある。
「見えてきたぜ、ゴブスケ!」
丘の上から、カシムが指を差す。
その先には、巨大な城壁に囲まれた、活気あふれる商業都市「ポルタ・フィエラ」が見えた。
街の門をくぐる手前で、俺たちは一度、立ち止まった。
「よし、頼んだぜ、相棒」
カシムの言葉に、俺は頷く。
目を閉じ、心にアンナの笑顔を思い浮かべる。
体が、温かい光に包まれる感覚。
目を開けると、俺の手は、もう緑色ではなかった。
鏡で確かめるまでもない。俺は、完璧な人間の少年になっている。
「いいか、ゴブスケ。今日から、この街でのお前の名前は『スケ』だ」
「スケ……? なぜだ」
「ゴブスケじゃ、ゴブリンみてえだろ。……いや、まあ、そうなんだが。いいか、スケは、異国情緒があって、ミステリアスな響きがある! そういうことにしとけ!」
カシムは、俺の服装を整えながら、矢継ぎ早に注意をくれる。
「あんまりジロジロ人を見るなよ。下を向くな、胸を張れ。でも、偉そうにするな。あと、返事は『うん』か『はい』だ。分かったな!」
俺は、彼の言葉に、こくりと頷いた。
門番の簡単な検問を抜けると、俺たちは、ついに街の中へと足を踏み入れた。
すごい。
王都の、あの冷たくて完璧な街並みとは、何もかもが違う。
道は狭く、人でごった返している。建物の窓からは洗濯物がはみ出し、子供たちが、その下を泥だらけで走り回っていた。
客引きの怒声。どこかの店の主人の笑い声。香辛料の、鼻をつく匂い。
その全てが、混沌としていて、そして、生きている。
人々は、俺の横を、何の警戒もなく通り過ぎていく。
フードも、スカーフもいらない。ただの、人間の少年として、俺はここにいる。
カシムが、果物屋の屋台で、真っ赤なリンゴを二つ買った。
「ほらよ、スケ。旅の疲れには、甘いもんが一番だ」
彼が、一つを俺に手渡してくれた、その時だった。
後ろから来た荷車を避けようとして、俺は人混みの中で、誰かと肩がぶつかった。
「おっと、危ねえな、坊主!」
ぶつかった相手の男が、舌打ちをする。
「あっ……すまない」
俺は、咄嗟に、頭を下げた。
その動きで、手から、リンゴが滑り落ちる。
石畳の上を転がり、荷車の車輪に轢かれて、無残に潰れてしまった。
『……しまった』
俺は、自分の失敗に、俯いた。
だが、それよりも早く、屋台の主人が、大きな声を上げた。
がっしりとした体つきの、人の良さそうな男だ。
「おっと、そりゃあ、ついてなかったな、坊主!」
彼は、俺の潰れたリンゴを見ると、豪快に笑った。
そして、屋台から、一際大きくて、艶のあるリンゴを手に取ると、それを俺に、ぽんと手渡してくれたのだ。
「旅のかい? これも持っていきな。気をつけてな!」
俺は、手渡されたリンゴと、主人の顔を、交互に見つめた。
ただ、呆然としていた。
『……なぜ?』
もし、今の俺がフードの下の、本当の姿だったら?
この親切は、一瞬で悲鳴に変わるだろう。
男の手は、リンゴではなく、近くの衛兵を呼ぶか、あるいは剣の柄を握っていたはずだ。
それが、俺にとっての当たり前だった。
「ラッキーだったな、スケ! 見ろよ、さっきのよりでけえぞ!」
隣で、カシムが呑気な声を上げる。彼は、俺の葛藤など、何も気づいていない。
だが、俺の心は、少しも喜んでいなかった。
胸に広がったのは、喜びよりも、ずっと重く、冷たい感情。
罪悪感。
俺は、この人を、騙している。
この親切は、本当の俺に向けられたものじゃない。俺が被った、人間の仮面に向けられたものだ。
「……どうした、スケ? 腹でも痛えのか?」
俺が黙り込んでいると、カシムが、不思議そうな顔で尋ねてきた。
「……いや。……あの人は、親切だった」
「ああ、いいおっちゃんだな。今度、また買ってやろうぜ」
「……俺が、ゴブリンだったら?」
俺の、ぽつりとした呟きに、カシムは一瞬、きょとんとした顔をした。
だが、彼はすぐに、俺の頭を、わしわしと乱暴に撫でた。
「馬鹿野郎。今は、ゴブリンじゃねえだろ。お前は、スケだ。俺の、相棒で、弟子だ。それだけ考えときゃいいんだよ」
ヴァレリウス様の言葉が、頭に響く。
『その姿は、君にとって、ゴブリンであること以上に、重い枷となるやもしれんぞ』
俺は、その言葉の意味を、今、初めて、本当の意味で理解した。
この、手の中のリンゴが、ずしりと重い。
それは、ただの果物ではなかった。
俺が、これから背負っていく、人間の仮面の、重さそのものだった。




