第60話:新たな旅立ち
授業は、終わった。
だが、俺の修行は、本当の意味で始まったばかりだった。
あれから数日。俺は、王宮から与えられた自室で、旅の準備を進めていた。
なけなしの着替えと数冊の魔導書を革の鞄に詰める。単純な作業。だが、頭の中は、ヴァレリウス様の最後の言葉でいっぱいだった。
「おい、ゴブスケ。何してんだよ、それ」
部屋に入ってきたカシムが、訝しげな顔で俺の手元を見た。
「旅の準備だ」
「旅? どこへ行くんだよ」
「分からない。だが、行かなければならない」
俺は手を止めカシムに向き直った。
「ヴァレリウス様の授業は、終わった。ここから先は、俺自身の旅だって」
「ああ……あの人が言ってたな、そういや」
カシムは、腕を組んで何かを考えるように天井を仰いだ。
「それで、お前、本当に一人で行くつもりなのか? 目的も、当てもなく?」
「目的はある」
俺は、自分の手を見つめた。一度だけ、人間の少年の手になった、その手を。
「人間として、世界を学ぶためだ。本で読むだけじゃない。この姿で、人間の街を歩き、人間と話し、人間が何を見て、何を感じて生きているのか知りたいんだ」
俺の言葉に、カシムは一瞬、驚いた顔をした。
だが、すぐにいつものニヤリとした笑みを浮かべた。
彼は立ち上がると、当然のように、俺の隣に立った。
「馬鹿野郎。話が違うぜ」
「何がだ?」
「その旅に、俺様が入ってねえだろうが」
彼は、自分の胸を親指でぐいと指し示した。
「当たり前だろ! ヴァレリウス様門下の兄弟子であり、天才魔術師ゴブスケ様の一番の相棒である、この俺様を置いていくつもりかよ!」
その言葉に、俺は少しだけ笑ってしまった。
「……ありがとう、カシム」
俺たちの旅立ちの準備は、すぐに終わった。
部屋を出ようとすると、扉の前で腕を組んだセラフィナが立っていた。
「……待ちなさい」
彼女は何も言わずに、一本の綺麗に畳まれたローブを俺に突き出した。
それは俺が着ている薄汚れたローブとは比べ物にならない、上質で丈夫そうな旅人のためのローブだった。
「その汚れたローブでは、王宮の品位を貶めます」
彼女は、そっぽを向いたまま吐き捨てるように言った。
「師の顔に泥を塗る前に、着替えなさい」
それは、彼女なりの、餞別なのだろう。
「……ありがとう、セラフィナ」
俺がそう言うと、彼女は「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。
彼女は、俺の目をまっすぐに見た。
「……忠告です、ゴブリン。外の世界は、こことは違う。あなたのその力は、使い方を間違えれば、あなた自身を滅ぼすことになる」
最後に俺たちは、ヴァレリウス様の執務室へと向かった。
彼は、俺たちが来ることを分かっていたようだった。
机の上で指を組み静かに俺たちを見つめている。
「……行くかね」
「はい。お世話に、なりました」
人間の姿になった俺は、深く頭を下げた。
ヴァレリウス様は、立ち上がると窓際に立った。
彼は、王都の景色を見下ろしながら、最後に一つだけ、と俺に忠告した。
「その姿は……君にとってゴブリンであること以上に、重い枷となるやもしれんぞ」
『……枷?』
俺には、その言葉の意味が分からなかった。
ヴァレリウス様は、もう俺たちを振り返らない。
俺とカシムは、静かに一礼するとその部屋を後にした。
王宮の巨大な門を、俺たちは、今度は堂々と歩いて出ていく。
俺は、セラフィナがくれた新しいローブを羽織っていた。
カシムが、隣で、これから始まる冒険に胸を躍らせている。
「なあ、ゴブスケ! まずは、商業都市ポルタ・フィエラを目指そうぜ! あそこなら、仕事もあるし、情報も集まる!」
俺は、ヴァレリウス様の最後の言葉を頭の中で繰り返していた。
重い枷。
その言葉の意味を、俺はまだ知らない。
だが、それでも俺は行くのだ。
仲間と共に、新たな世界へと、一歩を踏み出す。
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