第59話:授業の終わり
鏡の中の少年が、俺を見ていた。
俺が頬に触れると、少年も頬に触れる。
温かい。柔らかい。ゴブリンの、硬い皮膚じゃない。
『……俺……?』
「う、嘘だろ……」
静寂を破ったのは、カシムの、震える声だった。
彼は、恐る恐る、俺に一歩近づく。その目は、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
「ゴブスケ……? 本当に、お前なのか……? 喋ってみろ、何か……!」
俺は、彼の方へ振り向こうとした。
そして、自分の声で、答えようとする。
「……カシム?」
喉から漏れたのは、俺の知っている声ではなかった。
少しだけ高い、澄んだ、人間の子供の声。
その響きに、俺自身が驚いて、言葉を失う。舌の動き、唇の感触、何もかもが違う。
「ありえない……」
壁際に立つセラフィナが、か細い声で呟いた。
その完璧な無表情は崩れ、目の前で起きた現象を、彼女の持つ全ての知識が理解することを拒絶しているかのようだ。
「なぜ……。理論が……。長年の修練なくして、魂の形質をこれほど安定させられるはずが……ない」
「やった! やったじゃねえか、ゴブスケ!」
我に返ったカシムが、子供のようにはしゃぎながら、俺の肩を叩いた。
「ついにやったな、相棒! お前、本当に……! その顔、どうなってんだ! 魔法だよな!? 当たり前か! すげえ! 俺、天才の相棒になっちまった!」
彼は、俺の人間になった頬を、指でつんつんと突いてくる。
その時だった。
部屋の祝いの空気が、ふっと重さを変える。
ヴァレリウス様が、音もなく部屋に入ってきた。
彼は、はしゃぐカシムや、呆然とするセラフィナを一瞥もせず、ただ、鏡の前に立つ俺だけを見つめている。
「見事だ、ゴブスケ」
静かだが、逆らうことのできない声だった。
「動機は純粋だった。ゆえに、形は安定している。面白い」
その声に、俺は鏡から目を離し、師に向き直った。
人間の姿のまま。
「先生……俺は……」
俺は、自分の新しい声で、尋ねた。
「俺は、できるようになった、のですか」
ヴァレリウス様は、答えなかった。
彼は、俺の手の中で光の花が消えた、その空間を見つめている。
やがて、彼は、俺に向き直ると、最後の授業を始めた。
「心を形に変える。それこそが、変異魔法の本質だ」
その言葉は、俺の心に、静かに染み渡っていった。
「私の『問い』への答えは、君自身が見つけ出した。セラフィナの模倣ではなく、君自身の心にある、純粋な想い。それこそが、君だけの『形』を生み出す鍵だったのだ」
ヴァレリウス様は、俺の目を見て、はっきりと告げた。
「これ以上、私が君に教えることはない」
「え……?」
俺は、思わず声を漏らした。
カシムも、「終わり? なんでだよ! やっとできるようになったばっかりじゃねえか!」と抗議の声を上げる。
ヴァレリウス様は、俺の前に立つと、その冷たい瞳で、俺の魂の奥底まで見透かすように言った。
「私は、君に問いを与えた。君は、その答えを、自力で見つけ出した。私の役目は、終わった。君は変異魔法の『本質』を理解し、その扉を開けたのだ。ここから先は、君自身の修行だ」
彼は続けた。
「その姿を、いつ、どこで、何のために使うのか。それを見つけるのが、君自身の旅だ」
「師よ」
今まで黙っていたセラフィナが、声を上げた。
「では、彼は……このゴブリンは、もう……」
「彼はもはや、私の『研究対象』ではない」
ヴァレリウス様は、セラフィナの言葉を遮った。
「ここから先は、彼自身の物語だ」
彼は、それだけ言うと、踵を返した。
扉が閉まる。
後に残されたのは、俺たち三人だけだった。
授業は、終わった。
あまりにも、突然に。
「……すっげえ……」
カシムが、まだ人間の姿のままの俺の周りを、ぐるぐると歩き回る。
「おい、ゴブスケ。お前、とんでもねえことになっちまったな。で? いつゴブリンに戻るんだ? つーか、戻れるのか?」
戻る?
俺は、カシムの言葉に、はっとした。
俺は、自分の緑色の肌、尖った耳を思い浮かべる。俺が、俺である、元の姿。
すると、体が、ふわりと軽くなるような感覚がした。
カシムが、「うおっ!?」と驚いて飛びのく。
鏡の中の少年の姿が、陽炎のように揺らめき、元の、ゴブリンの姿へと戻っていた。
「……勘違いしないことです、ゴブリン」
部屋を出ていこうとするセラフィナが、最後に、俺を振り返らずに言った。
「あなたは扉を開けただけ。師が言われた通り、本当の旅はこれからです」
彼女は、それだけ言うと、今度こそ部屋を出ていった。
俺は、自分の緑色の、ゴブリンの手に戻った、その手を見つめた。
数分前まで、確かに、人間の手だった。
絶望ではない。
俺の手の中には、確かに、答えがある。変異魔法は、完成したのだ。
そして、ヴァレリウス様が最後に残した、新しい問いもある。
『その姿を、何のために使うのか』
俺の、新しい旅が、ここから始まるのだ。
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