第58話:心がつくる形
夜市の喧騒が、嘘のように遠のいていく。
俺たちは、誰一人口を開かないまま、王宮の塔へと戻っていた。
「……おい、ゴブスケ」
カシムが、俺の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「何か、吹っ切れたみてえな顔、してやがるな」
俺は、何も答えなかった。ただ、少しだけ、頷いた。
俺の心は、不思議なほど静かだったのだ。
隣を歩くセラフィナの視線を感じる。彼女も、俺の変化に気づいているようだった。
円い部屋に戻ると、俺はまっすぐに鏡の前へ向かった。
カシムが何かを言いかけたが、セラフィナが、それを目で制したのが分かった。
二人が、息を殺して俺を見守っている。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
もう、心を空にしようとは思わない。
俺の心の中は、今、たった一つの想いで満たされている。
『アンナに、花を贈りたい』
その想いだけが、心の中の暗闇を照らす、唯一の光だった。
ゴブリンであることの憎しみも、人間になりたいという焦りも、その小さな光の前では、力を失っていく。
俺は、両手を、胸の前にそっと差し出した。
杖は、いらない。
これは、俺の心が生み出す魔法だからだ。
マナが、体の奥底から、静かに湧き上がってくる。
それは、嵐のような奔流ではない。澄んだ泉の水が、溢れ出すような、穏やかな流れ。
光が、俺の両手の間に、蛍のように集まり始めた。
「……おい、なんだ……?」
カシムが、かすれた声で呟く。
「今までと、違うぞ……」
そうだ。違う。
俺自身にも、分かっていた。これは、今までの失敗とは、根本的に違う。
俺は、心に描いた花の形を、光に与えていく。
セラフィナの鳥のように、完璧な模倣じゃない。
夜市で見た、母親が作った木の葉の花飾りのように、ただ誰かを想う気持ちだけを込める。
光は、まず、一本の緑がかった茎を編み上げた。
次に、小さな葉が、そこから芽吹くように生まれる。葉脈の一本一本まで、光が緻密に描いていく。
そして、つぼみ。
光のつぼみが、俺の心臓の鼓動と合わせるように、ゆっくりと、一枚、また一枚と、その花びらを開いていく。
それは、俺が今まで見たどんな花とも違っていた。
アンナが教えてくれたシロツメのように白く、夜市のバラのように情熱的な赤を内に秘め、月光花のように、青白い光をかすかに放っている。
俺の、アンナへの想い。その全てが形になった花。
光の花は、俺の手のひらの上で、静かに完成した。
俺は、そっと目を開ける。
手のひらで、夢のような花が、柔らかな光を放っていた。
カシムが、息を呑む音が聞こえる。
セラフィナが、壁際で、凍りついているのが気配で分かった。
やった。
できたんだ。
俺は、安堵のため息をつき、手のひらの上の花と、それを持つ自分自身の手に、視線を落とした。
そして、気づいた。
『……え?』
俺の手は、緑色ではなかった。
節くれだった、ゴブリンの指じゃない。
滑らかで、少しだけ日焼けした、人間の少年の手。
指の爪の形も、違う。
心臓が、大きく跳ねた。
光の花が、役目を終えたかのように、ふわりと光の粒子に還って消えていく。
その光の粒子が、俺の腕を駆け上り、全身を包むような、温かい感覚がした。
「おい!おい!なんだよそれ!ゴブスケ!」
カシムが、裏返った声で叫んだ。
「お前の手! 顔! 鏡見ろ! 早く!」
俺は、カシムの言葉に促され、恐る恐る、顔を上げた。
鏡を見る。
そこに映っていたのは、ゴブリンではなかった。
見知らぬ、人間の少年が立っていた。
俺と同じくらいの背丈。栗色の髪。
いつも掛けている丸眼鏡の奥で、大きな瞳が、信じられないものを見るように、見開かれている。
俺は、震える手で、自分の頬に触れた。
鏡の中の少年も、同じように、自分の頬に触れる。
温かい。柔らかい。ゴブリンの、硬い皮膚じゃない。
尖っていたはずの耳に触れる。丸い。人間の耳だ。
「……ゴブスケ……?」
カシムが、絞り出すような声で、俺を呼んだ。
「お前……お前の、顔……」
セラフィナは、何も言えなかった。
ただ、その完璧な無表情を崩し、目の前で起きた奇跡を、呆然と見つめている。
世界で二人しか使えないはずの、究極の魔法。それが今、ゴブリンの手によって、目の前で、完璧に成し遂げられたのだ。
俺は、鏡に映る自分の姿に、言葉を失う。
これが、俺?
これが、俺がなりたかった、人間の……。
『……俺……?』
その、見知らぬ顔に、俺は、ただ問いかけることしかできなかった。
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