第57話:アンナの笑顔
試練は、難航していた。
円い部屋の床に座り、目を閉じる。来る日も来る日も、俺は心の中の暗闇を、ただ彷徨い続けていた。
『俺だけの、花……』
ヴァレリウス様の言葉が、頭にこびりついて離れない。
だが、俺の心の中に咲く花など、どこにもなかった。
目を閉じれば、浮かんでくるのは獣としての記憶ばかりだ。
獲物の兎が跳ねる形。敵を穿つための、鋭い石の形。木々の間から見える、月の形。
生きるために必要な形。それだけが、俺の心には刻み込まれている。
空想の花なんて、腹の足しにもならない。そんなものを、ゴブリンの本能が理解できるはずもなかったのだ。
「……もう、三日だぞ」
しびれを切らしたカシムの声が、静寂を破った。彼は部屋の隅で腕を組み、壁に寄りかかっている。
「飯もろくに食わねえで、ずっと座ってるだけじゃねえか。そんなんで、花だか何だか、思いつくわけねえだろ」
俺は目を開けずに、か細い声で答えた。
「……集中、しないと」
「集中、集中ってよ。お前のその緑色の顔、もっとひどい色になってんぞ。ミイラみたいだ」
カシムは立ち上がると、俺の肩を掴んで無理やり立たせた。
「もうやめだ、やめ! 今日は気分転換だ!」
「気分転換……?」
「ああ! 下町の方で、季節の終わりの夜市が開かれてるんだ。美味いもん食って、綺麗なもんでも見りゃ、何か思いつくかもしれねえだろ!」
俺が戸惑っていると、部屋の反対側から、氷のような声がした。
「……くだらない」
セラフィナが、書架から本を抜き取りながら吐き捨てる。
「師からの試練の最中に、市場の喧騒に身を置くなど。三流の発想だな」
「うるせえな! 天才は黙ってろ! こいつは、お前みたいに頭でっかちじゃねえんだよ!」
カシムは、セラフィナに食ってかかった。
「それに、これも共同研究の一環だろ? ゴブリンが人間の市場で何を感じるか、観察するいい機会じゃねえか」
その言葉に、セラフィナの動きが、ぴたりと止まった。
彼女は、俺とカシムを、値踏みするように見つめる。
やがて、彼女はふっと息を吐くと、本を元の場所に戻した。
「……いいでしょう。ただし、私も同行する。獣が問題を起こさないよう、監視するためだ」
こうして、俺たちの奇妙な遠足が決まった。
夜の王都は、昼間とは全く違う顔をしていた。
貴族たちが歩く大通りは静まり返り、下町の、狭い路地裏だけが、無数のランタンの光と、人々の熱気で溢れかえっている。
肉の焼ける匂い、甘い菓子の香り、聞いたこともない楽器の音色。その全てが、ごちゃ混ぜになって俺の五感を刺激した。
俺は、いつものようにフードを目深に被り、顔の下半分をスカーフで隠していた。
人混みは、それだけで脅威だ。誰かの腕がぶつかるたび、フードがずり落ちないかと肝を冷やす。
カシムは、まるで水を得た魚のようだった。
「おい、ゴブスケ! あれ見ろよ! 蛇使いだぜ!」
「こっちの串焼きは絶品なんだ! 奢ってやるよ!」
彼は俺の腕を引っ張り、人混みの中を駆け回る。
人々の熱気に当てられ、少し頭がくらくらした。
セラフィナは、少し離れた場所から、汚いものでも見るかのように眉をひそめ、俺たちを監視している。
俺たちは、一軒の花屋の屋台の前で足を止めた。
色とりどりの花が、ランタンの光を浴びて、鮮やかに咲き誇っている。
「ほら、ゴブスケ。こういうのだろ? お前が作りたい花ってのは」
カシムが、真っ赤なバラを一本、指差した。
俺は、屋台に並ぶ花を、一つ一つ、じっと見つめた。
赤いバラ。白いユリ。黄色いヒマワリ。
どれも、綺麗だ。完璧な形をしている。
だが、違う。
どれも、俺の心には響かない。
これじゃない。
その時だった。
人混みの向こうで、小さな子供の泣き声が聞こえた。
母親の手を離れ、迷子にでもなったのだろうか。
母親らしき女が、子供の前にしゃがみ込む。彼女は、何かを差し出した。
それは、屋台で売っているような、本物の花ではなかった。
道端に落ちていたのだろうか、ただの木の葉を、不器用に折りたたんで作った、粗末な花飾り。
「ほら、泣かないの。お花、綺麗ね」
子供は、その不格好な花飾りを受け取ると、ぴたりと泣き止んだ。
そして、涙で濡れた顔で、ぱあっと笑った。
世界で一番、綺麗な笑顔だった。
俺は、その光景に、釘付けになっていた。
フードの影の奥で、目を見開く。
頭を、殴られたような衝撃。
そうだ。
全ての始まり。
俺が、初めて『人間になりたい』と願った、あの夜。
窓の向こうで、母親が、子供に絵本を読んでいた。
銀色の鎧の騎士。巨大な竜。
物語の内容なんて、どうでもよかった。
俺の心を奪ったのは、物語を語る母親の、優しい声。
物語を聞く子供の、輝く瞳。
あの時、あの窓の向こうにあったもの。
この、木の葉の花飾りと、子供の笑顔の間にあるもの。
それは、『完璧』じゃない。『理論』でもない。
ただ、誰かを想う、温かい心。
『……アンナ』
彼女の笑顔が、脳裏に蘇る。
俺に「ゴブスケ」という名前をくれた時の、あの笑顔。
俺が拙い光の魔法を見せた時の、あの笑顔。
そうだ。
俺は、何になりたいわけでもなかった。
ヴァレリウス様に認められたいわけでも、セラフィナに勝ちたいわけでもない。
ただ、アンナの、あの笑顔が、もう一度見たい。
『人間になりたい』
そんな、大きくて、漠然とした願いじゃない。
もっと、ずっと、ささやかで、純粋な想い。
アンナに、花を贈りたい。
彼女が教えてくれた、あの『シロツメ』じゃない。
この森には咲いていない、見たこともない、世界で一番綺麗な花を。
俺だけが作れる、光の花を、彼女に。
その、たった一つの、純粋な想い。
それが、俺の心の中で、一筋の光になった。
俺の心の中に、一つの花の形が、ゆっくりと、しかし、はっきりと浮かび上がってくる。
それは、俺が今まで見た、どんな花とも違っていた。
だが、俺には分かる。これが、俺の心の中にだけ咲いていた、たった一輪の花なのだと。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
夜市の喧騒が、遠くに聞こえる。
カシムもセラフィナも、黙って俺を見ていた。
俺は、自分の両手を見つめる。
もう、迷いはない。
作るべき形は、見つけた。
あとは、この想いを、光に乗せるだけだ。
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