第55話:セラフィナの挑発
俺の修行は、行き詰まっていた。
円い部屋の床に座り、目を閉じる。ただそれだけの日々。
『心を空にせよ』
言葉で言うのは、簡単だ。だが、実行するのは、不可能に近い。
意識すればするほど、『無我』は遠ざかっていく。俺は、自分自身の思考という、出口のない迷路に迷い込んでいた。
「おい、ゴブスケ。もっとこう、ぼーっとするんだよ!何も考えるな!」
部屋の隅で、カシムが腕を組んで俺に助言を送ってくる。
「……あ、いや、考えるなと考えるのもダメか? クソッ、訳が分からねえ!」
彼は、俺以上に混乱しているようだった。
そんな俺たちを、部屋の入り口で、冷たい視線が見下ろしている。
セラフィナだ。
彼女は、ヴァレリウス様への報告のためか、毎日決まった時間にここへ来ては、俺の無様な姿を観察していく。
『……また、来たか』
その視線が、俺の集中を乱す。
焦りが生まれる。早く結果を出さなければ。セラフィナに、俺ができることを見せなければ。
その思考こそが、俺を『無我』から遠ざけている。分かっているのに、止められない。
「……はぁ」
セラフィナの、侮蔑に満ちたため息が、静かな部屋に響いた。
俺は、思わず目を開けて、彼女を睨みつける。
彼女は、俺の視線を受け止めると、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。
そして、俺の目の前で、足を止める。
「やはり、獣は獣」
その声は、凍てつく冬の風のようだ。
「心を持つことすら、できぬか」
「なっ……!」
カシムが、怒りに顔を赤くして立ち上がった。
「言い過ぎだろ、セラフィナ! ゴブスケは、お前なんかより、ずっと……!」
「黙りなさい、三流」
セラフィナは、カシムを一瞥もせずに切り捨てる。
彼女の目は、俺だけを見ていた。
「あなたは、何も分かっていない。魔法とは、荒れ狂うマナを、ただ放つことではない。意志の力で、マナを支配し、望む形を与える、緻密な芸術なのだ。今のあなたには、その意志を収めるべき『心』そのものがない」
俺は、何も言い返せなかった。
彼女の言う通りだったからだ。俺の心は、ただ荒れ狂うだけの嵐。
「……見せてあげましょう」
セラフィナは、そう言うと、静かに片手を差し出した。
「本当の、創造魔法というものを」
彼女は、目を閉じた。
詠唱はない。ただ、部屋中のマナが、彼女の指先へと、吸い寄せられていくのが分かった。
それは、俺がマナを操る時のような、荒々しい奔流ではない。
無数の、目に見えない光の糸が、静かに、そして正確に、彼女の手の中に集まっていく。
やがて、彼女の指先から、まばゆい光が生まれ始めた。
光は、爆発しない。ただ、生き物のように、自ら形を編み上げていく。
一本の糸が、もう一本の糸と絡み合い、緻密な模様を描き出す。
俺とカシムは、息を呑んで、その光景を見つめていた。
光は、やがて、一羽の鳥の形になった。
羽の一枚一枚、小さな足の爪先まで、完璧に再現された、光の鳥。
セラフィナが、そっと目を開ける。
光の鳥は、彼女の手を離れ、ふわりと宙を舞った。
音もなく、部屋の中を旋回する。その羽ばたきに合わせて、キラキラと光の粒子が舞い落ちた。
俺の目の前を通り過ぎる。その光は、不思議と温かかった。
それは、完璧な魔法だった。
圧倒的な、美。
俺が放つ、ただ破壊するだけの力の塊とは、何もかもが違う。
俺と、彼女との間にある、絶対的な実力差。
光の鳥は、しばらく部屋を舞った後、セラフィナの指先に戻ると、すっと光の粒子に還って消えていった。
完璧な魔法の余韻だけが、部屋の静寂に溶けていく。
俺は、彼女からの、決定的な侮辱の言葉を待っていた。
『あなたには、永遠にたどり着けない領域』
そう言われるはずだった。
だが、セラフィナは何も言わなかった。
彼女は、光が消えた自分の手のひらを、じっと見つめている。
完璧に保たれていた彼女の表情が、わずかに、本当にわずかに、歪んだ。
「……ここまで魔法が使えても、変異魔法はできない……」
それは、誰に言うでもない、呟きだった。
俺たちの前で、ではない。彼女自身の心の中から、思わず漏れ出てしまった、本音の響き。
その横顔に浮かんでいたのは、悔しさだった。
「変異魔法を使いこなせるのは、世界で二人だけ……」
『……え?』
『二人だけ……?』
俺とカシムは、顔を見合わせた。
変異魔法。俺が、目指している究極の魔法。
それを、このセラフィナができない?
そして、世界でたった二人しか、使えない?
信じられなかった。
セラフィナは、はっとしたように顔を上げた。俺たちに見られたことに気づいたのだ。
彼女の顔から、一瞬で悔しさの色が消え、いつもの氷の仮面が戻ってくる。
俺たちを、殺すような目で一瞥すると、彼女は何も言わずに、踵を返した。
扉が閉まる、冷たい音だけが、後に残った。
呆然と立ち尽くす俺とカシム。
カシムも、いつもの軽口を叩く気力すらないようだった。
俺は、自分の緑色の手を見つめた。
マナは、感じる。力はある。
だが、俺には、それを入れるべき『器』がない。
セラフィナの挑発。そして予期せぬ本音。
それは、俺の心の奥底に深い屈辱の杭と、そして、奇妙な共感のようなものを打ち込んだ。
俺は、床に置かれていた自分の杖を、指が白くなるほど、強く握りしめた。
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