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第54話:心の修行

 

 ヴァレリウス様の問いが、俺の頭から離れない。


『くしゃみそのものが、本当に原因かね?』


 カシムはあれから、「刺激の角度が悪い」「湿度が足りない」と、まだ新しい実験の計画を練っているらしい。


 セラフィナは分厚い魔導書を開き、くしゃみとマナ暴走の因果関係を、眉間に皺を寄せながら探している。

 二人とも、まだくしゃみの周りをうろついている。

 だが、俺は違う。


 俺は一人、あの円い部屋の床に座っていた。

 目を閉じる。


 エリアス先生の書斎で読んだ、古い本の一節を思い出すのだ。


『心を空にせよ。静かな水面のように、波一つ立てるな』

 瞑想。それが、答えに繋がる気がした。


 呼吸を整える。

 吸って、吐いて。

 俺の意識は、静かな湖の底へ、ゆっくりと沈んでいく。

 何も考えるな。何も感じるな。


『……帰りたい』


 不意に、声が聞こえた。

 エリアス先生の塔。インクと古い紙の匂い。あの混沌とした書斎が、なぜか安らぎの記憶として蘇る。

 違う。これは雑念だ。追い払え。


『また、会える?』


 アンナの声。栗色の髪。俺にくれた、マナの結晶の温もり。

 会いたい。今すぐにでも、会いたい。

 ダメだ。これも、雑念。


「「「グギャアアアアアッ!!」」」


 族長の雄叫び。

 血と泥の匂い。同族の、獣じみた目。

 俺が捨ててきたもの。俺が、最も憎んでいるもの。

 俺の中から、ゴブリンの俺が顔を出す。


『ああ、もう!』


 俺は、思わず目を開いた。

 心臓が、早鐘を打っている。額には、汗が滲んでいた。

 心を空にする。それが、これほど難しいことだったとは。

 俺の心は、静かな水面なんかじゃない。様々な感情が渦を巻く、荒れ狂う嵐の海だ。


「おい、ゴブスケ。またやってんのか、それ」

 いつの間にか、カシムが部屋の入り口に立っていた。呆れたような、心配するような、奇妙な顔で俺を見ている。


「床に座って、ぶつぶつ言ってるだけじゃ、何も変わらねえぞ。ほら、新しい粉、手に入れたんだ。今度こそ本物だぜ」

 彼が、怪しげな色の粉が入った小袋を振って見せる。


「……カシム。少し、静かにしてくれ」


「なんだよ、つれねえな。こっちだってお前のために……」


「違う。……今、大事なことを考えている。……いや、考えていない」


 俺はもう一度、挑戦する。

 今度は、雑念を追い払うのをやめた。

 ただ、来るがままに、受け流す。


 浮かび上がるアンナの顔。

 ありがとう。ただ、そう思う。 


 現れる族長の姿。

 俺は、もうお前たちとは違う。そう、心の中で告げる。


 エリアス先生。ヴァレリウス様。カシム。セラフィナ。

 出会った人々の顔が、次々と浮かんでは消えていく。


 俺は、思考の奔流の中で、一つのことだけを探していた。

 最初の変身。あの奇跡の瞬間。


 修行がうまくいかず、焦っていた。

 セラフィナのため息。カシムの落胆。


『……才能が、ないのか』

 そう思った瞬間、体の力が、ふっと抜けた。


 諦め。

 そうだ。俺は、あの時、一度、完全に諦めたんだ。

『人間になる』という、執着を手放した。


 その時、鼻がむず痒くなった。

 そして、くしゃみ。

 世界が白く弾け、意識が途切れる、ほんのわずかな時間。

 空っぽの時間。


 目を開ける。

 俺は、まだゴ-ブリンの姿のままだ。

 だが、何かが、確かに分かった。


「……分かった」

 俺は、思わず声に出していた。


「なんだよ、何が分かったってんだ?」

 カシムが、俺の顔を覗き込む。


「……あの時。俺は、『人間になりたい』と願っていなかった」


「はあ? 何言ってんだ、お前。人間になりたいから、修行してるんだろ」


「違う……。何も、願っていなかった。ただ、そこにいただけだ。変身は、俺の意志じゃなかった。意志が……消えた時に、起きたことだ」


 俺の言葉に、カシムは眉をひそめた。

「意志が、消えた……? 禅問答かよ。ますます分からん」


「それが『無我』だ」

 冷たい声が、部屋に響いた。


 いつの間にか、セラフィナが立っていた。彼女は、俺たちの会話を聞いていたらしい。


「高等魔術理論の基礎。術者の『我』が消え、世界のマナと一体となった時、理論を超えた奇跡が起こりうる。……まさか、その領域に片足を踏み込んでいたとは驚きだ」

 彼女の言葉には、侮蔑と、それ以上に、研究者としての純粋な興味が混じっている。


「無我、だと?」

 カシムは、俺とセラフィナの顔を交互に見る。


「じゃあ、なんだ? 俺のくしゃみ薬草は、全く関係なかったってことかよ!」


「最初からそう言っているでしょう、三流」

 セラフィナが、吐き捨てるように言った。


 カシムは、がっくりと肩を落とした。

 俺は、そんな彼を横目に、セラフィナに尋ねた。


「……どうすれば、『無我』になれる?」

 彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。


「簡単なれるものではない。至るもの。何十年という修行の果てに、ごく一部の天才だけがたどり着ける境地。……あなたのような獣に、理解できるはずもありません」

 すぐに、新しい壁が目の前に現れる。

 どうやって、『無我』になる?


『無我になろう』と意識した瞬間、それはもう、無我ではない。


 俺は、立ち上がった。

 部屋の静寂が、耳に痛い。

 答えは、まだ見えない。


 だが、登るべき山の姿は、はっきりと見えた。

 それは、これまで俺が対峙してきた、どんな敵よりも、巨大で、険しい壁だった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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