第53話:ヴァレリウスの問い
くしゃみ地獄は、まだ続いている。
実験室と化したこの円い部屋も、すっかり埃と薬草の匂いが染みついてしまった。まあ、カビ臭いよりはマシなのだが。
問題は、俺の鼻だ。もう飾りみたいなものになっている。匂いなんてとっくに感じない。ただ、ひりひりと痛むだけ。
「よし、ゴブスケ! 今日のメインディッシュだ!」
カシムが目を血走らせて木箱を運んでくる。その顔は三流魔術師というより、獲物を見失った猟犬に近い。まったく、見ているこっちが疲れるくらいだ。
「南方の希少種、『鼻こしょぐり虫』の乾燥させた触覚だ! これでダメなら、もう知らん!」
『……そのセリフ、毎日聞いている気がするな』
俺は言われるがまま椅子に座り、無抵抗に鼻を差し出す。
部屋の隅では、セラフィナが羊皮紙に何かを書きつけている。ペン先が紙を引っ掻く音だけが、やけに大きく響いていた。彼女の全身から放たれる苛立ちの気配が、部屋の空気を重くするのだ。
カシムが、虫の触覚で俺の鼻をくすぐる。
俺の体は、もう条件反射で動く。
「……っくしょん!」
情けないくしゃみが一つ。
鏡の中のゴブリンは、もちろん微動だにしない。
「あああああっ、もう!」
カシムが触覚を床に叩きつけ、自分の髪を掻きむしる。
「なんでだ! 何が足りないんだ!」
その時、セラフィナはペンを置くと、静かに立ち上がった。
「報告書を提出してきます」
彼女の声に、感情の色はなかった。
「この不毛な実験が、いかに無意味であるかを、師にご報告するまで」
彼女はカシムを一瞥もせず、部屋を出ていく。
重い扉が閉まる音が、やけに物悲しく響いた。
ヴァレリウス様の執務室は、完璧な静寂に包まれていた。
セラフィナは、主人の前で背筋を伸ばし、直立する。
「……それで、報告とは何だね、セラフィナ」
ヴァレリウス様は本から目を離さないまま、静かに尋ねる。
「ご報告申し上げます、師よ。件の実験ですが、何ら有益な結果は得られておりません」
セラフィナは、事実だけを報告する。
「三流魔術師は、依然として非科学的な試行を無意味に繰り返しております。本日までに試した刺激物は百七種。結果、ゴブリンの鼻粘膜に重度の炎症を確認したのみ。変身の兆候は皆無です」
彼女の言葉の端々に、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。
ヴァレリウス様は、ゆっくりと本を閉じる。
パタン、という乾いた音だけが、広い執務室に響いた。
「報告は、それだけかね」
「……はい。師よ、このような実験は、続ける価値が……」
「セラフィナ」
ヴァレリウス様は、彼女の言葉を遮った。
彼は立ち上がり、窓の外に広がる王都の景色を見つめる。
「一つ、問おう」
セラフィナは息を呑み、主人の次の言葉を待つ。
ヴァレリウス様は振り返らない。ただ、窓ガラスに映る彼女の姿を見つめている。
「くしゃみそのものが、本当に原因かね?」
問いは、それだけだった。
何の答えも、ヒントも示さない。ただ、一つの疑問符だけを、セラフィナの心に突き刺す。
彼女は、言葉の意味を理解できず、その場で立ち尽くした。
「……下がりなさい」
ヴァレリウス様の静かな声に、彼女は深く一礼すると、音もなく執務室を後にする。
部屋に戻ってきたセラフィナの様子は、どこか違っていた。
いつもの険しい表情は消え、深い思索に沈んでいるように見える。
「おいセラフィナ! ヴァレリウス様に俺の功績を報告してきたか!? 天才的な発想だって、褒めてただろ!」
カシムが、何も気づかずに駆け寄る。
セラフィナは、カシムを汚物でも見るかのような目で一瞥すると、彼を無視した。彼女は、まっすぐに俺の前に立つ。
「ゴブリン」
その声は、氷のように冷たい。
「師から、あなたへの問いです」
俺は、彼女の真剣な瞳を見つめ返す。
「『くしゃみそのものが、本当に原因かね?』……師は、そう問われました。意味を考えなさい」
「はあ?」
カシムが、素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前だろ! くしゃみが原因じゃなきゃ、何だってんだ! あの奇跡は、俺の薬草が……」
カシムの言葉が、俺の耳を通り抜けていく。
ヴァレリウス様の問い。
『くしゃみそのものが、本当に原因かね?』
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
そうだ。
俺も、うすうす感じていたのだ。『これは、違う気がする』と。
俺は、目を閉じる。
くしゃみ地獄の記憶を、頭から追い出す。
思い出すのは、最初の、たった一度だけの奇跡。
鏡の前で、俺は焦っていた。
修行がうまくいかなかった。
カシムが、薬草をすり潰していた。
粉が、舞う。
鼻が、むず痒くなる。
そして……。
違う。
もっと、前のことだ。
諦めかけた時。『才能がないのか』と、体の力が抜けた時。
全ての意志を、手放した時。
心が、空っぽだった。
何も考えていなかったのだ。
『人間になりたい』という、強い願いすら、その一瞬は忘れていた。
ただ、体の衝動に、身を任せていただけ。
『……結果じゃない。過程……?』
思考の種が、蒔かれた。
ヴァレリウス様の、たった一つの問い。
それが、俺の心を、新しい場所へ確かに導こうとしていた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




