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第52話:くしゃみ地獄

 

 俺の日常は、くしゃみから始まる。


 実験室と化した円い部屋。あの日から一週間が過ぎる。

 部屋の空気はいつも何か得体の知れない粉で満ちていた。テーブルの上にはカシムが市場から買ってきた、怪しげな瓶や袋がごちゃごちゃと並ぶ。


 俺の鼻はもうただの飾りだ。匂いは感じない。ひりつく痛みだけがそこにある。


「よし、相棒! 今日の実験を始めるぞ! 覚悟はいいか!」

 カシムの目には、狂気じみた探究の光が宿っていた。


 彼はもう三流魔術師ではない。くしゃみ研究の権威を自称する、奇妙な科学者だ。

 俺は黙って、鏡の前の椅子に座る。


『覚悟も何もない。俺はただ、鼻を差し出すだけだ』


 部屋の隅で、セラフィナが腕を組み壁に寄りかかっている。彼女はヴァレリウス様の命令で、毎日この滑稽な茶番に付き合わされていた。顔には隠しようもない苛立ちが浮かんでいた。


「三流。あなたの目の前にある粉は、昨日と同じものではないでしょうね」

 彼女の声は、凍りついた刃物のようだ。


「失礼な! これは『猫じゃらしの花粉』だ! 昨日使った『イラクサの棘の粉末』とは、植物学上の分類が全く違う!」

 カシムは胸を張って答える。彼はセラフィナに認めさせようと、毎日違う種類の粉を用意していた。


「……カシム」

 俺は、赤い鼻を押さえながら、か細い声で言った。 


「もう、やめないか。俺の鼻が、おかしくなる」


「馬鹿野郎! 奇跡はすぐそこなんだぞ! ここで諦めてどうする!」

 カシムは聞く耳を持たない。


 俺は、カシムが差し出す匙に乗った、黄色い粉末を吸い込む。

 世界が、一瞬だけ白く霞んだ。


「へっ……、……ハックション!!」


 衝撃で体が椅子から跳ねる。涙で視界が滲む。

 鏡を見る。

 鼻水を垂らしたゴブリンが、そこにいるだけだった。


「おかしいな……」

 カシムが、真剣な顔で顎に手を当てる。


「刺激が足りないのか……? よし、次はこれだ!」

 彼が次に持ってきたのは、食堂の厨房から拝借してきたという胡椒の瓶だった。


「ハックション!」「グシュン!」「ぶえっくしょい!!」


 俺のくしゃみだけが、部屋に虚しく響き渡る。

 胡椒、乾燥唐辛子の粉、埃。カシムが試すものはどんどん魔法からかけ離れていく。


「……なあ、カシム」

 俺は、くしゃみの合間に、息も絶え絶えに尋ねた。 


「本当に、くしゃみなのか? 変身は、魔法じゃないのか?」


「だから! くしゃみが魔法の引き金なんだって言ってるだろ!」


「でも、エリアス先生は、魔法は意志とイメージだって……」


「お前の意志が足りねえんだよ! もっとこう、変身したいって強く願え!」


 俺は、人間になりたいと強く願いながら、くしゃみをした。

 何も起こらない。


 実験開始から、十日が過ぎた。

 俺の鼻の頭は、熟した果実のように赤く腫れ上がっている。


「くそっ! 何が違うんだ! あの日と、何が……!」

 カシムはついに床に膝をつき、自分の髪を掻きむしった。

 彼の理論は完全に壁にぶつかっていた。


 俺は赤い鼻をさすりながら、ぼんやりと考える。

 こんなことを続けて、本当に意味があるのだろうか。


 その時、カシムが何かを思いついたように顔を上げた。

 彼は部屋の隅のガラクタ箱を漁ると、一本の汚れた鳥の羽根を手に取って戻ってきた。


「……分かったぞ、ゴブスケ。刺激の『質』だ。粉末のような化学的な刺激じゃない。もっと、こう……物理的な……」

 彼は悪魔のような笑みを浮かべ、鳥の羽根を俺の鼻先でちらつかせる。


「……カシム、よせ。それは、違う気がする」

 俺は、後ずさった。本能が、警鐘を鳴らしていた。


「さあ、こい! 奇跡のくしゃみよ!」

 羽根の先端が、俺の鼻の穴をくすぐる。

 こしょばゆい感覚が脳天を貫いた。


「ひっ……ひひ……や、やめ……!」


 俺が身をよじった、瞬間だった。


「――もう、おやめなさいッ!!」


 セラフィナの堪忍袋の緒が切れた。

 彼女は壁を離れるとカシムから鳥の羽根をひったくり、床に叩きつける。


「見ていられない! 魔法とは宇宙の理を解き明かす神聖な学問! 羽根で鼻をくすぐるなど、猿の遊びだ!」

 彼女の瞳には怒りと軽蔑の色が燃えていた。


 カシムは床の羽根を拾いながら、負けじと食い下がる。

「うるさい! 天才には分からねえんだよ、俺たち凡人の地道な努力ってやつがな! あらゆる可能性を試す! これが科学の基本だろ!」


「科学!? あなたのしていることは、ただの拷問だ!」


「結果が出れば、偉大な発見になるんだよ!」


 二人の怒声が部屋の中でぶつかり合う。

 俺はその光景をただ眺めていた。

 鼻の痛みが頭の芯まで響く。


『……くしゃみ』


 俺は自分の赤い鼻にそっと触れる。

 本当に、これなのか?


 あの時、俺の心はどうだった?

 何かを考えていたか?

 何かを、感じていたか?


 思い出そうとする。

 記憶にあるのは鼻のむず痒さと、どうしようもない衝動だけだった。


 その日の実験はセラフィナの怒りによって強制的に終了した。


 カシムは「明日は乾燥させたミミズの粉末を試す」と、まだ諦めていないようだった。


 セラフィナは分厚い報告書に何かを殴り書きすると、一度も俺を見ずに部屋を出ていった。


 俺は一人、鏡の前に立つ。

 そこには疲れ果てた、鼻の赤いゴブリンが映っていた。


『これは、違う気がする』


 確信はない。

 ただ、そんな予感が、痛む鼻の奥で静かに生まれていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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