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第51話:奇跡の再現実験

 

 部屋の時間が止まっていた。


 壁一面を覆う巨大な鏡。鏡の前に、三人の影が凍りついている。

 口を開けたまま俺を指差すカシム。


 氷の仮面が砕け、ただ茫然と俺を見つめるセラフィナ。

 自分の鼻をこすりながら、二人の反応の意味を測りかねている、俺。


『……なんだ? 俺の顔に、何かついているのか?』

 俺は自分の緑色の手を顔の前にかざす。指を一本ずつ折り曲げ、開く。見慣れた俺の手だ。


 沈黙を破ったのは、セラフィナだった。彼女の声はか細く震える。


「……ゴブリン。あなた、今、何をしたの?」

 声にいつもの侮蔑はない。未知の現象を前にした研究者の問いかけだ。

 俺は正直に答えるしかなかった。


「……何も。ただ、くしゃみを」


「くしゃみですって?」

 セラフィナの眉が信じられないものを見るように吊り上がる。硬直から回復したカシムが堰を切ったように叫んだ。


「見たか! 見たよな、セラフィナ! 今の、奇跡の瞬間を!」

 彼は俺の肩を掴み、興奮で体を揺さぶる。


「緑じゃなかった! 肌の色が! 耳も! あの尖った耳が、丸くなってたんだ! 一瞬だけ! ほんの一瞬だけ、こいつ、人間のガキになってやがった!」


『……人間? 俺が?』


 俺は鏡を振り返る。そこに映っているのは、鼻の頭を赤くした、情けないゴブリンの俺だけだ。 カシムの言葉の意味が、頭に入ってこない。


「人間の子供……? ありえない」

 セラフィナはカシムの言葉を冷たく一蹴した。


「変身魔法は、術者の明確な意志と、高度なマナ制御の上に成り立つもの。くしゃみという生理現象で発動するなど、理論上、不可能」


「理論、理論って、うるせえな! 俺たちは、この目で見たんだよ!」

 カシムが自分の目を指差して反論する。


「それに、原因は分かってる! 俺だ! 俺のおかげなんだよ!」

 彼は部屋の隅にある自分の乳鉢を指差した。中には彼が調合していた『竜の目覚め草』の粉末が残っている。


「俺が調合していた秘薬の粉末! こいつがゴブスケの鼻を刺激し、くしゃみを誘発した! つまり、この薬草の成分がゴブスケの体内に眠る変身の才能を、化学反応的に呼び覚ましたんだ! そうに違いない!」

 セラフィナはこめかみを押さえた。深深いため息が彼女の唇から漏れる。


「……三流魔術師。魔法は、アレルギー反応ではない。あなたの万能薬草信仰には、反吐が出る」


「なんだと! 俺の長年の研究を、馬鹿にする気か!」


「研究? ただの思いつきでしょう。科学的根拠を提示なさい」


「これ以上ない根拠が、今、目の前で起きただろうが!」


 二人の言い争いが熱を帯びていく。俺は二人の間で、ただ立ち尽くすだけだった。


 話が全く見えない。俺は鼻がむず痒くて、くしゃみをしただけだ。これだけなのに、なぜ目の前でこんな壮大な論争が繰り広げられているんだ?


 部屋の空気が、ふっと重さを変えた。

 俺たちの背後。音もなく、いつの間にかヴァレリウス様が立っていた。


「……騒がしいですね」


 一言で、カシムとセラフィナの言い争いが嘘のように静まり返った。

 ヴァレリウス様は俺たちの誰を見るでもなく、ただ壁の鏡に映る俺たちの姿を眺めていた。瞳に何の感情も浮かんでいない。


「師よ! こ、これは……」

 セラフィナが慌てて弁明しようとする。


「ヴァレリウス様! 俺です! 俺がやりました! この三流魔術師カシムが、ゴブスケの才能を開花させる、歴史的瞬間に立ち会ったのです!」

 カシムがここぞとばかりに手柄を主張する。


 ヴァレリウス様は二人を無視した。

 鏡の中の俺を、まっすぐに捉える視線。


「……ゴブスケ。君は、どう思うかね」

 静かな声が俺に問いかける。

 俺は戸惑いながらも事実だけを口にした。


「……わかりません。俺は、ただ、くしゃみを……」


「なるほど」

 ヴァレリウス様は短く呟く。


 彼はカシムが指差した『竜の目覚め草』の粉末に一瞥をくれた。ヒステリックな反論を必死にこらえるセラフィナの顔を見る。

 静かに宣告した。


「――面白い。ならば、再現してみなさい」


「「えっ?」」

 カシムとセラフィナの声が綺麗に重なった。


「カシムの仮説が正しいのか。セラフィナの理論が正しいのか。ここで議論をしても答えは出ません。証明すればいい。ただ、それだけのことです」

 ヴァレリウス様は子供の遊びを許可するような、軽い口調で言った。


「セラフィナ。あなたも、この『実験』に立ち会いなさい。共同研究の一環です。何が起きたのか、あなたの目で確かめ、私に詳細な報告書を提出するように」


「し、しかし、師よ! このような非科学的な……!」


「命令です」


 一言で、セラフィナの全ての反論は封じられた。彼女は屈辱に唇を噛み締め、黙って頷くしかなかった。

 ヴァレリウス様は俺たちに告げると、音もなく部屋から姿を消した。彼の興味はもう、この先の結末にしかないようだった。


 後に残されたのは、気まずい沈黙と三人の俺たち。

 沈黙を破ったのはカシムの勝利宣言だった。


「聞いたか、ゴブスケ! セラフィナ! ヴァレリウス様が、俺の仮説を認めてくださったぞ! さあ、世紀の実験の始まりだ!」

 彼は意気揚々と乳鉢を手に取り、『竜の目覚め草』の粉末を調合し始める。


「よし、できた! さあゴブスケ! 思いっきり、この奇跡の粉を吸い込むんだ!」

 カシムが自信満々に粉を俺の鼻先へと突きつけてくる。


 セラフィナは腕を組み、壁際に立って冷たい目で様子を観察している。

 俺はこれから始まるであろう、不毛な未来を予感していた。


『……くしゃみをするのか』


 俺は覚悟を決めて、刺激的な香りを大きく吸い込んだ。

 鼻の奥がツンとする。

 むずむずした感覚が急速に強烈な痒みへと変わっていく。


「へ……っ」


 もう、限界だった。


「はっ……ハックション!!」


 盛大なくしゃみが部屋に響き渡った。

 涙目になりながら俺は鏡を見る。


 鼻水を一筋垂らした、間抜けな顔のゴブリンが一人、映っているだけだった。


「……だから、言ったでしょう」

 セラフィナの心底呆れ返った声が静かに響いた。


 カシムが信じられないという顔で、自分の乳鉢と俺の顔を交互に見比べている。


「ば、馬鹿な……!? 配合の割合が、少しだけ、違ったのか……!?」


 俺たちの、奇妙で、終わりの見えない共同研究が、幕を開けた瞬間だった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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