第50話:くしゃみと奇跡
俺の『人間学』の授業と、セラフィナ様との共同研究は、その後も続いた。
それは、気まずさと屈辱と、ほんのわずかな、奇妙な理解が入り混じった不思議な時間だった。
「違う、と言っているだろう、このゴブリン!」
セラフィナ様の金切り声が、研究室に響き渡る。
彼女が俺の目の前に突きつけているのは、『マナ粒子の相転移における第七証明式』という、俺には呪文にしか見えない数式の羅列だった。
「なぜ、マナを放出する際に、第三項のマナ漏出を考慮に入れない! そんなことも分からずに、よく今まで魔法が使えたものだ!」
「……だって、そんなこと、考えなくても、マナは出る」
俺が正直に答えると、彼女は天を仰いで頭を抱えた。
「ああ、もう! だから、お前は野蛮だと言っているんだ! 理論なき力は、ただの暴力だ!」
逆に、彼女が頭を抱えることもあった。
「この『夜啼き鳥の涙』の純度が、どうしても上がらない……。文献通りに調合しているはずなのに」
彼女が、何日も煮詰めている、透明な液体の入ったフラスコ。俺は、その匂いを、くんくんと嗅いだ。
「……セラフィナ様。これ、材料を一つ、間違えている」
「はあ!? 間違えるはずがない! 全て、教科書通りに……!」
「教科書には、匂いは書いていない。この匂いは、『夜啼き鳥』じゃない。姿がよく似た、『嘘つき鳥』の涙の匂いだ」
俺がそう言うと、彼女は信じられないという顔で、材料の瓶を手に取った。そして、鑑定魔法でそれを調べると、その顔がみるみる青ざめていく。
俺の言う通りだったのだ。
俺は、彼女の魔法理論の緻密さに驚き、彼女は、俺のゴブリンとしての野生の知識に、不本意ながらも目を見張った。
俺たちは、決して、友人にはなれない。だが、互いが互いを、ただの「獣」や「エリート」という記号で見ることは、もうできなくなっていた。
そして、季節が一つ巡った頃。
ヴァレリウス様が、俺を呼び出した。
「君の報告書は、受理した。及第点、といったところか」
彼は、俺が血の滲むような思いで書き上げた、人間の歴史と思想に関する報告書の束を、机の脇に置いた。
「約束通り、次の段階へ進む。変身魔法の、直接指導を許可しよう」
ついに、この時が来た。
俺の心臓が、大きく跳ねた。
修行の場所は、塔の一室にある、何もない円形の部屋だった。壁の一面が、巨大な一枚岩を磨き上げた、完璧な鏡になっている。
ヴァレリウス様の命令で、カシムとセラフィナ様も、共同研究の一環として、その場に立ち会っていた。
カシムは、自分のことのように、そわそわと落ち着きがない。
セラフィナ様は、腕を組み、壁際に立って、冷たい目で俺を観察していた。
「理論は、書物で学んだな」
ヴァレリウス様は、静かに言った。
「重要なのは、イメージだ。己が『何者であるか』を忘れ、『何者になりたいか』だけを、強く、明確に思い描け。マナを力でねじ伏せるな。水が器に収まるように、あるべき形へと、導くのだ」
俺は、鏡の前に立った。
そこに映る、緑色の肌の、ゴブリン。
俺は、目を閉じ、この姿を、意識の外へと追い出した。
そして、心に一人の少年を描く。アンナと同じくらいの年の、栗色の髪をした人間の少年。
俺は、教えられた通りに、何度も、何度も、変身を試みた。
杖を握りしめ、マナを練り上げる。
だが、俺の体は、ぴくりとも変わらない。
鏡に映る俺は、ただ、汗を流し、必死の形相で腕を突き出す、滑稽なゴブリンのままだった。
『なぜだ……!』
焦れば焦るほど、マナは指先から霧散していく。
一時間、二時間が過ぎた。
俺の体力も、集中力も、もう限界だった。
セラフィナ様の、侮蔑のため息が聞こえる。カシムの、落胆したような視線が、背中に突き刺さる。
『……才能が、ないのか』
俺が、本気で諦めかけた、その時だった。
部屋の隅で、退屈しのぎに自分の薬草を調合していたカシムが、くしゃみをした。
彼が乳鉢で砕いていたのは、鼻を強く刺激する、『竜の目覚め草』という薬草だった。
その、目に見えないほどの細かい粉が、部屋の空気中に、ふわりと舞う。
俺の鼻が、むずむずとした。
『……なんだ?』
集中が途切れる。
むずむずは、やがて抑えきれないほどの、強烈な痒みへと変わった。
「へ……っ」
俺は、必死にこらえた。だが、もう、限界だった。
「はっ……ハックション!!」
盛大なくしゃみが、静まり返った部屋に響き渡る。
俺は、涙目になりながら、鼻をごしごしと擦った。
『うぅ……最悪だ。一番、格好悪いところを……』
俺は、がっくりと肩を落とし、もう一度、鏡を見た。
そこに映っているのは、相変わらず、情けない顔をしたゴブリンの俺。
今日はもう終わりか、と思った、その時。俺は、鏡に映る、背後の二人の異様な様子に気づいた。
カシムが、口を半開きにしたまま、俺を指差して固まっている。
セラフィナ様は、いつも冷静な彼女からは想像もつかないほど、大きく目を見開いていた。その完璧な無表情が崩れ、ただ、呆然と、俺の顔と鏡を、交互に見比べている。
「……ゴブスケ……」
カシムが、震える声で俺を呼んだ。
「お、お前、今……」
「見たか、今のを……?」
セラフィナ様が、カシムに尋ねる。
その声は、か細く、信じられないものを見た人間の声だった。
「ああ……見た……! 緑じゃ、なかった……! 耳も……丸くて……!」
カシムが、興奮したように答える。
『緑じゃ、なかった? 耳?』
俺は、自分の緑色の手を、まじまじと見つめた。尖った耳に、指で触れる。
一体、この二人は、何を言っているんだ?
俺が混乱していると、セラフィナ様が、俺の方へ近づいた。
彼女は、俺の目を、まっすぐに、射抜くように見つめていた。その瞳にあるのは、いつもの侮蔑ではない。
そして、彼女は、静かに尋ねた。
「……ゴブリン。あなた、今、何をしたの?」
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