表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間になりたいゴブリン ~一冊の魔導書を拾った日から、運命は変わり始めた~  作者: ストパー野郎
第五部:新たな師匠と姉弟子、そしてときどき相棒
50/101

第50話:くしゃみと奇跡

 

 俺の『人間学』の授業と、セラフィナ様との共同研究は、その後も続いた。


 それは、気まずさと屈辱と、ほんのわずかな、奇妙な理解が入り混じった不思議な時間だった。


「違う、と言っているだろう、このゴブリン!」

 セラフィナ様の金切り声が、研究室に響き渡る。


 彼女が俺の目の前に突きつけているのは、『マナ粒子の相転移における第七証明式』という、俺には呪文にしか見えない数式の羅列だった。


「なぜ、マナを放出する際に、第三項のマナ漏出を考慮に入れない! そんなことも分からずに、よく今まで魔法が使えたものだ!」


「……だって、そんなこと、考えなくても、マナは出る」

 俺が正直に答えると、彼女は天を仰いで頭を抱えた。


「ああ、もう! だから、お前は野蛮だと言っているんだ! 理論なき力は、ただの暴力だ!」

 逆に、彼女が頭を抱えることもあった。


「この『夜啼き鳥の涙』の純度が、どうしても上がらない……。文献通りに調合しているはずなのに」

 彼女が、何日も煮詰めている、透明な液体の入ったフラスコ。俺は、その匂いを、くんくんと嗅いだ。


「……セラフィナ様。これ、材料を一つ、間違えている」


「はあ!? 間違えるはずがない! 全て、教科書通りに……!」


「教科書には、匂いは書いていない。この匂いは、『夜啼き鳥』じゃない。姿がよく似た、『嘘つき鳥』の涙の匂いだ」


 俺がそう言うと、彼女は信じられないという顔で、材料の瓶を手に取った。そして、鑑定魔法でそれを調べると、その顔がみるみる青ざめていく。

 俺の言う通りだったのだ。


 俺は、彼女の魔法理論の緻密さに驚き、彼女は、俺のゴブリンとしての野生の知識に、不本意ながらも目を見張った。


 俺たちは、決して、友人にはなれない。だが、互いが互いを、ただの「獣」や「エリート」という記号で見ることは、もうできなくなっていた。


 そして、季節が一つ巡った頃。

 ヴァレリウス様が、俺を呼び出した。


「君の報告書は、受理した。及第点、といったところか」

 彼は、俺が血の滲むような思いで書き上げた、人間の歴史と思想に関する報告書の束を、机の脇に置いた。 


「約束通り、次の段階へ進む。変身魔法の、直接指導を許可しよう」

 ついに、この時が来た。

 俺の心臓が、大きく跳ねた。


 修行の場所は、塔の一室にある、何もない円形の部屋だった。壁の一面が、巨大な一枚岩を磨き上げた、完璧な鏡になっている。


 ヴァレリウス様の命令で、カシムとセラフィナ様も、共同研究の一環として、その場に立ち会っていた。


 カシムは、自分のことのように、そわそわと落ち着きがない。

 セラフィナ様は、腕を組み、壁際に立って、冷たい目で俺を観察していた。


「理論は、書物で学んだな」

 ヴァレリウス様は、静かに言った。


「重要なのは、イメージだ。己が『何者であるか』を忘れ、『何者になりたいか』だけを、強く、明確に思い描け。マナを力でねじ伏せるな。水が器に収まるように、あるべき形へと、導くのだ」

 俺は、鏡の前に立った。


 そこに映る、緑色の肌の、ゴブリン。

 俺は、目を閉じ、この姿を、意識の外へと追い出した。


 そして、心に一人の少年を描く。アンナと同じくらいの年の、栗色の髪をした人間の少年。


 俺は、教えられた通りに、何度も、何度も、変身を試みた。

 杖を握りしめ、マナを練り上げる。


 だが、俺の体は、ぴくりとも変わらない。

 鏡に映る俺は、ただ、汗を流し、必死の形相で腕を突き出す、滑稽なゴブリンのままだった。


『なぜだ……!』

 焦れば焦るほど、マナは指先から霧散していく。 


 一時間、二時間が過ぎた。

 俺の体力も、集中力も、もう限界だった。


 セラフィナ様の、侮蔑のため息が聞こえる。カシムの、落胆したような視線が、背中に突き刺さる。


『……才能が、ないのか』

 俺が、本気で諦めかけた、その時だった。


 部屋の隅で、退屈しのぎに自分の薬草を調合していたカシムが、くしゃみをした。


 彼が乳鉢で砕いていたのは、鼻を強く刺激する、『竜の目覚め草』という薬草だった。

 その、目に見えないほどの細かい粉が、部屋の空気中に、ふわりと舞う。


 俺の鼻が、むずむずとした。


『……なんだ?』

 集中が途切れる。


 むずむずは、やがて抑えきれないほどの、強烈な痒みへと変わった。


「へ……っ」

 俺は、必死にこらえた。だが、もう、限界だった。


「はっ……ハックション!!」

 盛大なくしゃみが、静まり返った部屋に響き渡る。


 俺は、涙目になりながら、鼻をごしごしと擦った。

『うぅ……最悪だ。一番、格好悪いところを……』


 俺は、がっくりと肩を落とし、もう一度、鏡を見た。

 そこに映っているのは、相変わらず、情けない顔をしたゴブリンの俺。


 今日はもう終わりか、と思った、その時。俺は、鏡に映る、背後の二人の異様な様子に気づいた。


 カシムが、口を半開きにしたまま、俺を指差して固まっている。

 セラフィナ様は、いつも冷静な彼女からは想像もつかないほど、大きく目を見開いていた。その完璧な無表情が崩れ、ただ、呆然と、俺の顔と鏡を、交互に見比べている。


「……ゴブスケ……」

 カシムが、震える声で俺を呼んだ。


「お、お前、今……」


「見たか、今のを……?」

 セラフィナ様が、カシムに尋ねる。


 その声は、か細く、信じられないものを見た人間の声だった。


「ああ……見た……! 緑じゃ、なかった……! 耳も……丸くて……!」

 カシムが、興奮したように答える。


『緑じゃ、なかった? 耳?』

 俺は、自分の緑色の手を、まじまじと見つめた。尖った耳に、指で触れる。

 一体、この二人は、何を言っているんだ?


 俺が混乱していると、セラフィナ様が、俺の方へ近づいた。

 彼女は、俺の目を、まっすぐに、射抜くように見つめていた。その瞳にあるのは、いつもの侮蔑ではない。


 そして、彼女は、静かに尋ねた。


「……ゴブリン。あなた、今、何をしたの?」





 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ