第5話:二つの影
アンナと出会ってから、数日が過ぎた。
俺の生活は、色鮮やかに変わり始めていた。
「ゴブスケ、また来たよ!」
約束の時間、森の中の開けた場所に行くと、アンナはいつも太陽のような笑顔で俺を迎えてくれる。
彼女は俺のために、こっそり家から持ってきたパンや果物を分けてくれた。生まれて初めて食べた、人間の手で調理された食べ物の味。特に、ほんのり甘いパンの味は、筆舌に尽くしがたい感動があった。
お返しに、俺は彼女のために森の宝物を探すようになった。キラキラ光る水晶のかけらや、鳥の綺麗な羽根、食べられる木の実。彼女が喜んでくれると、俺の胸も温かくなった。
「今日はね、この本を持ってきたの」
アンナは、俺が人間の物語に憧れていることを知ると、時々家から絵本を持ち出してくれるようになった。
俺は文字を読める。だが、アンナの優しい声で語られる物語は、自分で黙読するのとは全く違う、特別な響きを持っていた。
彼女がページをめくるたび、俺はまだ見ぬ人間の世界の温かさに、想いを馳せるのだった。
言葉はまだ、お互いにカタコトだ。
だが、一緒に過ごす時間の中で、俺たちは確かに友情というものを育んでいた。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。
俺は、本気でそう願い始めていた。
◇
その頃、ゴブリンの巣穴では、一体のゴブリンが苛立ちを募らせていた。
この群れを率いる『族長』だ。
彼は玉座代わりにしている巨大な岩の上から、不潔な巣穴で喚き散らす同族どもを、冷ややかに見下ろしていた。
力が全て。弱肉強食。それがゴブリンの社会の唯一の掟。
その掟を乱す者は、たとえ同族であろうと排除する。それが族長の役目だ。
「……あの『変なやつ』は、どこへ行った」
族長は、腹心のゴブリンに低く唸るように尋ねた。
『変なやつ』とは、奴らが俺を呼ぶときの識別名だ。
「はっ。ここ数日、ほとんど巣穴には近づきやせん。森の奥の洞窟に引きこもっているようですが……」
「……妙な匂いがするな」
族長の鋭い鼻が、風に乗って運ばれてくる微かな匂いを捉えていた。
石鹸の匂い。そして、人間の食い物の匂い。
あの『変なやつ』の住処の方角から、確かに漂ってくる。
奴は、人間と接触しているのか?
ゴブリンの掟を破り、最大の敵である人間に媚びを売っているのか?
もしそうなら、群れの秩序を乱す、許されざる裏切り行為だ。
「……見張っておけ」
族長は、短く命令を下した。
「奴が何をしているのか、誰と会っているのか、全てだ。何かあれば、すぐに報告しろ」
腹心のゴブリンは深く頭を垂れると、音もなく闇に消えた。
族長の濁った目が、俺の住む森の奥を、忌々しげに睨みつけていた。
◇
同じ頃、村の入り口では、一人の男が森の暗がりを見つめていた。
アンナの父親であり、村の猟師長でもあるバルトだ。
「ただいま、お父さん!」
森から駆け足で戻ってきたアンナが、彼の足元に飛び込んでくる。
「アンナ。また森へ行っていたのか。あれほど奥へは行くなと言っただろう」
バルトの声は、心配のあまり少し硬くなっていた。
「ごめんなさい。でも、秘密の遊び場を見つけたの! とっても素敵な場所なんだよ」
アンナはゴブスケとの約束を守り、無邪気な笑顔で嘘をつく。
暖炉の火が、壁に掛けられた古い剣の傷をなめるように照らした。猪の牙も熊の爪も通さぬはずの鋼の刀身に刻まれた、無数の細かい切り傷。それは獣の爪痕ではない。
ゴブリンが使う、錆びた曲刀の痕跡だった。剣の柄頭には、煤で黒ずんではいるが、かろうじて白き獅子の紋章が見て取れる。
娘の服や髪に微かに染みついた、土と黴の混じったような……洞窟の臭い。
バルトの背筋を、冷たいものが走った。
『……ゴブリンは、ただの獣ではない。奴らは、油断した者の命を、いとも容易く奪う』
その目には、単なる猟師のものではない、深い憎しみと、かつての戦場で仲間を失った指揮官の光が宿っていた。
「……アンナ。お前、森で誰かに会っているのか」
「えっ!? う、ううん! 一人だよ!」
動揺する娘の目を見て、バルトの疑念は確信に変わった。
ただの子供の秘密の遊びではない。何か、良くないことが起きている。
森の奥は、ゴブリンの縄張りだ。まさか、そんなはずは……。
過去に仲間をゴブリンに殺された記憶が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。
「いいか、アンナ。もう二度と、一人で森の奥へは行くな。これは命令だ。分かったな」
「……どうして!? お父さん、最近怒ってばっかり!」
アンナは目に涙を浮かべ、バルトに背を向けて家の中へ駆け込んでしまった。
残されたバルトは、固く拳を握りしめる。
娘を守るためなら、なんだってする。たとえ、娘に嫌われようとも。
彼は決意を固めた。
明日、森に入ろう。娘が一体、森で何と会っているのか、この目で確かめるために。
◇
その夜、俺は自分の洞窟で、アンナからもらったパンの最後のひとかけらを、惜しむように食べていた。
今日の出来事を思い出し、自然と口元が緩む。
アンナが笑うと、まるで世界が明るくなるような気がした。
俺はまだ、気づいていなかった。
俺のささやかな幸福に、二つの暗い影が、すぐそこまで迫っていることに。
洞窟の入り口。その少し離れた大木の枝の上で、月明かりに照らされた一対の目が、じっと中の様子を監視していることになど、思いもよらないまま――。
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