第46話:鏡の中の怪物
書庫での勉強は、俺に多くのことを教えてくれた。
だが、それは同時に、俺の焦りを大きくしていた。
人間について知れば知るほど、俺は自分が人間ではないという事実を、毎日、毎時間、突きつけられる。
ページをめくる、俺自身の緑色の指を見るたびに。机の磨かれた表面に映る、俺の尖った耳を見るたびに。
ヴァレリウス様の言う通り、俺は人間の魂の形を学んでいるのかもしれない。だが、俺の魂が入っているこの器は、紛れもないゴブリンのままだった。
このまま知識だけを詰め込んで、俺は一体、何になるというんだ? 物知りなだけの、化け物か?
その夜、俺は決意した。
カシムが、ギルドの付き合いで部屋を空けている。ヴァレリウス様も、自室で研究に没頭しているはずだ。
部屋の静寂が、俺の心臓の音をやけに大きく響かせる。
『……今しかない』
俺は、ヴァレリウス様の書斎から、こっそり持ち出していた一冊の本を開いた。
『変身魔法基礎理論』
読むことを固く禁じられていた、禁断の書物。
その革張りの表紙は、ひやりと冷たく、まるで生き物のように俺の指に吸い付く気がした。
ページには、こう書かれていた。
『変身とは、己の肉体の外殻を、マナの力で再構築する行為である。最も重要なのは、己が「何者であるか」を忘れ、「何者になりたいか」を強く、明確にイメージすること』
俺は、部屋に置かれていた、大きな姿見の前に立った。
そこに映るのは、紛れもない、一匹のゴブリン。俺が、最も憎んでいる俺自身の姿。
俺は、鏡の中の自分を睨みつけた。
目を閉じ、必死に、あるべき自分の姿を思い浮かべる。
あの絵本で見た、騎士の、気高い顔。アンナの、優しい笑顔。
『人間になりたい』
ただ、その一心で。
俺は杖を握りしめ、覚えたての理論を頼りに、体中のマナを練り上げた。
杖の先端のマナの結晶が、心臓の鼓動のように、激しく明滅を繰り返す。
これまで感じたことのない、荒れ狂う奔流のような力が、俺の体の中を駆け巡った。それは熱い奔流となって、俺の血管を逆流していく。
『いける!』
そう確信した瞬間だった。
ゴキリ、と。
体の内側から、骨が軋む、嫌な音がした。
熱い。熱い、熱い! 全身の皮膚が、内側から焼かれているようだ。
『ぐっ……あ……がっ……!?』
声にならない悲鳴が、喉から漏れる。
何かが、おかしい。イメージが、定まらない。騎士の顔と、アンナの顔と、そして、鏡に映る俺自身のゴブリンの顔が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、一つの醜い塊になっていく。
やめたいのに、やめられない。暴走したマナが、俺の体を勝手に作り変えていく。
俺は、恐る恐る、目を開いた。
鏡に映っていたのは、俺ではなかった。
それは、醜い、この世の物とは思えない怪物の姿だった。
皮膚はどろどろに溶け、顔のパーツは歪んだ場所に張り付いている。右腕は巨人のように膨れ上がり、左腕は赤子のように萎縮していた。手足はありえない方向に曲がり、背中からは、ねじくれた骨が翼のように突き出していた。
ゴブリンでも、人間でもない。ただの、失敗作。
「ア……アア……」
俺の口から漏れたのは、意味のない獣の咆哮だけだった。
制御を失ったマナが、俺の体から紫色のオーラとなって噴き出し、部屋の家具をめちゃくちゃに破壊していく。
その時、部屋の扉が、凄まじい勢いで吹き飛んだ。
そこに立っていたのは、カシムと、そして、セラフィナ様だった。
二人は、俺の魔力の暴走を察知して、駆けつけてきたのだ。
「なんだ、これは……!?」
セラフィナ様が、目の前の惨状と、部屋の中心で苦しむ怪物の姿に、息を呑む。
だが、カシムは叫んだ。
彼は、あの怪物の、苦痛に歪む瞳の奥に、俺の姿を見ていた。
「ゴブスケッ!」
カシムは、暴走する魔力の嵐の中を、俺を助けようと、まっすぐに駆け寄ってくる。
しかし、セラフィナ様は、そのカシムの前に立ちはだかった。
彼女の顔は、恐怖と、そして、純粋な嫌悪に引きつっていた。彼女の目に映っているのは、苦しむ弟子ではなく、ただの、危険で、忌まわしい化け物。
「やはり、ただの怪物だったではないか!」
彼女は、杖を構え、その先端に、部屋中の空気が凍りつくほどの、強大な魔力を集め始めた。
「師の名を汚す不浄の存在め! あの三流ごと、二人まとめて排除する!」
彼女のターゲットは、俺だけではなかった。
俺を助けようとするカシムごと、この部屋の全てを、消し飛ばすつもりだ。
セラフィナ様の杖の先から、絶対的な破壊の光が放たれる。
部屋中が、真っ白な光に包まれた。
カシムが、俺を庇うように、その小さな背中で、光の前に立ちはだかるのが見えた。
もう、何もかもが、終わりだと思った。
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