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人間になりたいゴブリン ~一冊の魔導書を拾った日から、運命は変わり始めた~  作者: ストパー野郎
第五部:新たな師匠と姉弟子、そしてときどき相棒
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第45話:最初の授業

 

 大書庫での奇妙な日常が、始まって数日が過ぎた。

 俺の新しい戦場は、この静寂と、無数の視線が支配する場所だった。


 朝、カシムと共に部屋を出て、憎悪の視線が作る針のむしろの廊下を歩き、この書庫へ来る。そして、日が暮れるまで、ひたすら目の前の本の山と格闘する。その繰り返し。


『……分からない』


 俺は、一冊の本を前に、頭を抱えていた。 

『宮廷儀礼典範』。

 そこに書かれているのは、俺がこれまで生きてきた世界とは、全く違う理屈だった。


 スープを飲むときは音を立てるな。魚と肉では、使うナイフとフォークを変えろ。貴族に会った時の挨拶は、身分によって五種類を使い分けろ。


 なぜだ? 俺からすれば、食べ物は腹を満たすためのもの。挨拶は敵意がないことを示すためのもの。


 その目的は同じはずなのに、なぜ人間は、これほどまでに複雑で、面倒な決まり事を作るんだ? 俺が憧れた、あの窓の向こうの光景にあった『愛情』や『感謝』と、この分厚い本に書かれたルールの間に、一体どんな繋がりがあるというんだ。


 理解しなければならない。人間になるためには。だが、どうしても、その意味が見えてこない。


「おい、ゴブスケ。まだそんなもん読んでんのか」

 カシムが、うんざりした顔で、俺の机の向かいに腰を下ろした。彼は、ギルドの下っ端仕事から逃げてきたらしい。


「一体いつまで、こんな退屈な勉強を続けるんだ? ヴァレリウス様は、いつになったら、本物の魔法を教えてくれるんだよ。俺たちが今やるべきなのは、フォークの使い方じゃなくて、セラフィナの氷の槍を防ぐための、防御魔法の練習だろうが!」

 彼の言うことにも、一理ある。 


 俺も、本当は魔法の修行がしたい。だが、ヴァレリウス様の命令は、絶対だ。


「……無駄口を叩いている暇があるなら、君も歴史書の一冊でも読んだらどうだね、カシム」

 その声に、俺とカシムは、凍りついた。 


 いつの間にか、ヴァレリウス様が、俺たちの背後に、音もなく立っていた。


「わ、ヴァレリウス様! い、いえ、これはその、ゴブスケの勉強の進捗を、私が気にかけておりまして……!」

 カシムが、慌てて取り繕う。


 ヴァレリウス様は、そんな彼を一瞥すると、興味を失ったかのように、俺に向き直った。


「ゴブスケ。何か、学びはあったかね」

 彼は、俺が読んでいた『宮廷儀礼典範』を、指先でトン、と叩いた。


 俺は、自分の悩みを、正直に口にした。

「……分かりません。なぜ、人間は、こんなに複雑な決まり事を…」


「なぜ、複雑なのだと思う」


「……目的は、同じはずなのに…」

 ヴァレリウス様は、ため息をついた。 


 それは、エリアス先生の、怒りに満ちたため息とは違う。完璧な計算式が、ほんの少しだけ狂ったことに対する、冷たい失望のため息だった。


「君は、まだ文字を追っているだけだ。それでは、何も学べはしない」

 彼は、書架から、別の本を一冊抜き取ってきた。


 それは、『人間種族の思想と芸術について』という、挿絵の多い本だった。

 彼は、あるページを開いて、俺に見せた。


 そこには、一枚の絵が描かれていた。銀色の鎧をまとった騎士が、巨大な竜から、村を守っている絵。

 俺が、幼い頃、窓の外から見た、あの絵本と、同じ光景。


「なぜ、この騎士は戦う? ゴブリンなら、自分より強い竜を前にすれば、逃げるか、媚びへつらうだろう。だが、人間は違う。時に、己の命よりも、守るべきものがあると信じる。たとえ、それが己の破滅に繋がるとしてもだ」

 彼の指が、次に、別のページを指し示す。そこには、美しい王妃の肖像画が描かれていた。


「なぜ、人間は、このような絵を描く? なぜ、詩を詠む? それは、ただ美しいからというだけではない。その美しさの中に、永遠や、理想や、あるいは、己の権威を、見出そうとするからだ」 


「君が理解に苦しむ、テーブルマナーも同じことだ。あれは、食事という本能的な行為の中に、『秩序』と『階級』という、人間社会のルールを反映させるための、一種の儀式なのだよ」

 俺は、彼の言葉を、ただ呆然と聞いていた。


 本に書かれているのは、ただの知識じゃない。その裏側にある、人間の『心』の動き。


「君の願いは、『人間になる』ことだったな」

 ヴァレリウス様は、俺の目を見て、静かに言った。


「姿だけを真似ても、中身が獣のままでは、滑稽な道化にしかなれん。変身魔法とは、形を変える術ではない。魂の在り方を変える術だ。君が本当に人間になりたいのなら、まず、人間という生き物の、その矛盾に満ちた魂の形を、知らなければならない」


 彼は、それだけ言うと、また、音もなく去っていった。

 俺は、一人、書庫の静寂の中に残された。


 目の前には、騎士の絵。

 俺が憧れた、光。

 その絵の中の英雄も、俺を獣と罵る、あの魔術師たちも、同じ人間。

 あまりにも巨大で、理解不能な矛盾。


『……これが、人間』


 俺は、もう一度、本のページに視線を落とした。

 そこには、俺の知らない文字で、俺の知らない英雄の物語が、びっしりと書かれている。


 知らなければならない。

 この、矛盾した生き物のことを。

 俺は、震える指で、次のページをめくった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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