表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間になりたいゴブリン ~一冊の魔導書を拾った日から、運命は変わり始めた~  作者: ストパー野郎
第五部:新たな師匠と姉弟子、そしてときどき相棒
44/101

第44話:衆人環視の弟子

 

 王宮での新しい一日が、始まった。

 それは、俺がゴブリンとしてではなく、ただの「俺」として生きるための、最初の試練の日だった。


 部屋の扉を開ける前、俺は一度だけ、深く息を吸った。

 磨き上げられたドアノブに、俺の緑色の顔がぼんやりと映っている。尖った耳、大きな目。見慣れた、俺自身の顔。この顔が、これから憎悪の的になる。


 隣で、カシムの顔が引きつっているのが分かる。


「……いいか、ゴブスケ。何があっても、下を向くんじゃないぞ。堂々としてろ。これはヴァレリウス様からの試練なんだ。俺様がついている」

 彼の声は、震えていた。自分自身に、必死に言い聞かせているようだった。


 俺は、小さく頷くと、扉を開けた。

 一歩、廊下へ踏み出す。


 フードがない。スカーフもない。ただ、俺の緑色の肌と、尖った耳が、王宮のひやりと冷たい空気に晒される。

 まるで、鎧を全て剥ぎ取られたような、無防備な感覚。全身の毛が逆立つのが分かった。


 すぐに、それは始まった。


 向かいの廊下の角から現れた、若い侍女が二人。彼女たちは、俺の素顔を認めると、短い悲鳴を上げて息を呑んだ。


 手に持っていた洗濯物の籠が、ガシャンと大きな音を立てて床に落ちる。真っ白なシーツが、塵一つない大理石の床に散らばった。


 俺は、咄嗟にそれを拾おうとして、足を一歩踏み出した。


 その動きに、侍女たちは「ひぃっ」と叫び、もつれるようにして逃げていく。

 俺は、伸ばしかけた手を、やり場のないまま、ゆっくりと下ろした。


 俺たちは、何も言わずに、その横を通り過ぎる。

 背後で、彼女たちが慌てて走り去っていく足音が聞こえた。


 大書庫へ向かう、長い廊下。

 そこは、俺にとって、針のむしろだった。

 昨日までは、フードの影に隠れることで、俺はまだ「正体不明の不気味な存在」でいられた。


 だが、今は違う。

 俺は、「宮廷魔術師長が弟子にした、喋るゴブリン」として、確定した。


 ヴァレリウス様が進退を賭けた、謎のゴブリン。王宮中の好奇と猜疑の、たった一つの的。

 すれ違う魔術師や貴族たちが、あからさまに俺たちを避けて道を開ける。


 そして、安全な距離を取ると、まるで汚いものでも見るかのように、俺を頭のてっぺんから爪先まで眺め、ひそひそと囁き合った。


 俺の、ゴブリンとしての優れた聴力が、その言葉の刃を、一つ一つ拾い上げてしまう。


『見ろ、あれが…』

『本物のゴブリンだ…悍ましい…肌の色…』

『師は、何を考えておられるのだ…』

『近寄るな、呪いがうつるぞ』


 俺は、顔を上げ、前だけを見た。

 カシムの言う通り、堂々としていなければならない。ここで怯えれば、俺は、奴らの言う通りの、ただの獣になってしまう。


 隣で、カシムが、俺を守るように、いつもより少しだけ俺の側に寄って歩いている。その背中が、小刻みに震えていた。


 大書庫の、巨大な扉が見えてきた。

 その扉の前で、一人の女が、腕を組んで立っていた。


 セラフィナ様だった。

 彼女は、俺たちを待ち構えていたのだ。


 その瞳には、昨日のような激しい怒りはなかった。代わりに、氷のように冷たい、絶対的な侮蔑の色が浮かんでいる。

 彼女は、何も言わなかった。


 ただ、俺がすぐ横を通り過ぎる瞬間まで、虫けらを見る目で、俺を睨みつけていた。その視線は、お前はすぐにここから消える、と告げているようだった。

 視線だけで、俺の背筋は凍りついた。


 大書庫の中も、安息の地ではなかった。

 学者や魔術師たちは、表立って騒ぎはしない。だが、書架の陰から、本のページをめくるふりをしながら、無数の目が、俺の一挙手一投足を監視していた。

 俺は、ヴァレリウス様に指定された閲覧席へ向かう。

 そして、昨日与えられた、分厚い本の山と向き合った。


『王国の歴史』。

 俺は、その一冊目を開いた。


 インクの匂い。古い紙の匂い。

 そこに記されているのは、俺が今まで知ることのなかった、人間たちの、壮大な物語。


 俺は、必死に、その文字の世界に没頭しようとした。周囲の視線を忘れるために。囁き声を、聞かないために。


 この本を書いた人間。この本に登場する人間。その末裔たちが、今、すぐそこで、俺を獣と罵っている。


 その矛盾が、俺の頭を混乱させた。

 ページをめくる指が、震える。


『……ダメだ。集中できない』


 俺は、傍らに立てかけていた杖を、強く握りしめた。杖の先端で、アンナがくれたマナの結晶が、俺の心に応えるように、かすかに温かい光を宿す 。


 彼女の笑顔を思い出す。

『また、会える?』

 そうだ。俺は、こんな場所で、立ち止まるわけにはいかない。


 俺は、もう一度、本の文字に意識を集中させた。

 これが、ヴァレリウス様の言った、「最初の授業」なのだから。


 憎悪の視線に晒されながら、その憎悪を生み出した者たちの歴史を学ぶ。

 俺の新しい日常は、そんな、あまりにも奇妙で、息の詰まるようなものだった。


 俺は、自分が、巨大なガラスケースの中に閉じ込められた、珍しい生き物になったような気がした。


 時折、顔を上げると、遠くの書架の陰で、俺を観察していた誰かが、慌てて本で顔を隠すのが見えた。

 その繰り返しだった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ