第43話:仮面を脱いで
食堂の時間が、止まった。
俺が発した、たった一言。それが、この完璧な世界を、完全に停止させた。
セラフィナ様の、怒りに燃えていた瞳から、色が消えていく。彼女は、信じられないものを見るかのように、ただ、俺の顔があったであろうフードの奥を、見つめていた。その唇が、かすかに震えている。
他の魔術師たちも、同じだった。ある者は椅子から腰を浮かせたまま硬直し、ある者は手に持ったゴブレットを取り落としそうになっている。
その絶対的な静寂を破ったのは、ヴァレリウス様だった。
彼は、まるで何も起きていないかのように、俺の肩に置いていた手を離した。
そして、一言。
「行くぞ」
彼は、凍りついた魔術師たちを一瞥もせず、踵を返す。
その声に、俺とカシムは、呪縛が解けたかのように、慌てて彼の後を追った。
俺たちが食堂を後にする間際、背後で、堰を切ったような囁き声が爆発したのが分かった。俺たちが長い廊下を歩く間も、その音の波は、ずっと背後から追いかけてくる。
俺たちの背中に突き刺さる、無数の視線。もはや単なる憎悪や侮蔑ではなかった。
畏れと、混乱と、そして、未知の存在に対する、むき出しの恐怖。
その全てが、俺たちが去った後の食堂に、渦巻いていた。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、カシムはその場に崩れ落ちた。
「……何てことをしてくれたんだ、お前……!」
彼は、幽霊でも見たかのような顔で、俺を見つめている。
「馬鹿野郎! あのセラフィナ様だぞ!? ギルドのエリート全員が見てる前で、あの女に口答えするなんて、自殺行為だ!」
彼は、頭を掻きむしって叫んだ。
「お前は知らないんだ! あの女は、ただの天才じゃない! ヴァレリウス様に次ぐ権力を持っている!……公爵家の娘なんだぞ! あの女を敵に回すってことは、王宮の半分を敵に回すのと同じだ!」
「俺たちはもう終わりだ! 今度こそ完全に終わりだ! あいつは執念深いぞ、絶対に俺たちを潰しに来る! 地下牢に放り込まれて、ネズミの餌になるんだ!」
カシムが一人で絶望している、その時だった。
部屋の扉が、再び音もなく開いた。
ヴァレリウス様だった。
彼の冷たい存在感が、カシムの狂乱を一瞬で黙らせる。
彼は、床で頭を抱えるカシムを無視すると、まっすぐに俺の前に立った。
そして、俺が被っていたフードを、その細く長い指で、有無を言わせぬ力で後ろへと剥ぎ取った。
緑色の肌。尖った耳。丸眼鏡の奥の、怯える俺の瞳。
俺の全てが、彼の前に晒される。
「明日から、そのフードは禁止する」
「なっ……!」
カシムが、素っ頓狂な声を上げた。
「む、無茶です、ヴァレリウス様! ただでさえセラフィナ様に睨まれているのに、顔まで晒したら、一歩も外を歩けません!」
「黙りなさい、カシム」
ヴァレリウス様の静かな声が、カシムの抗議を切り捨てる。
「君の役目は、彼を王都へ導くまで。ここからは、私の領域だ」
彼は、再び俺に視線を戻した。
その瞳は、俺の全てを見透かすように、深く、冷たい。
「君の願いは、エリアスの手紙にあった通り、『人間になる』ことだろう?」
俺は、こくりと頷く。
それが、俺の、たった一つの目的。
「ならば、まず顔を上げなさい。異物であることを恐れ、影に隠れる者に、何かを成すことなどできはしない」
彼は、俺が予備に持っていた、汚れたスカーフを指先でつまみ上げると、まるでゴミでも捨てるかのように、床に放った。
「恐怖は、君を獣のままにする。憎悪の視線に慣れなさい。人間は、理解できぬものを恐れ、そして憎む。その憎悪を全身で浴び、それでもなお、君が君でいられるのなら、話はそこからだ。衆目に晒されることから、全ては始まる。それが、私の下での、最初の授業だ」
授業。
それは、魔法の訓練ではなかった。
俺がこれから受けるのは、もっと過酷で、残酷な試練。
「姿だけを真似ても、中身が獣のままでは、滑稽なだけだ」
ヴァレリウス様が、どこからか、数冊の分厚い書物を取り出した。それは、ドン、と重い音を立てて、俺の目の前の机に積まれる。
革の匂いと、古い紙の匂い。『王国の歴史』『宮廷儀礼典範』『人間種族の思想と芸術について』。俺がこれまで読んできた魔導書とは、全く違う本。そのどれもが、ずっしりと重い。
「君はまず、人間というものを、知らなければならない。その歴史を、文化を、愚かさを、そして、美しさを。この全てを読み解き、私に報告しなさい。それができるまで、魔法の修行は許さない」
俺は、目の前に積まれた本の壁と、ヴァレリウス様の顔を、交互に見つめた。
この男は、本気だ。
俺を、ただのゴブリンとしてではなく、一つの知性として扱い、その上で、あまりにも高い壁を、俺の前に突きつけている。
ヴァレリウス様が部屋を去った後、俺は、机の上の本に、そっと指で触れた。
これが、俺の新しい武器。
そして、俺の新しい枷。
アンナに会いたい。人間になりたい。その願いが、今は、とてつもなく重い鎖となって俺の首にかかっているような気がした。本の一冊を手に取る。ずしりとした重みが、腕にのしかかった。
明日から、俺は、この王宮を、素顔で歩かなければならない。
無数の憎悪と、好奇の視線に晒されながら。
俺は、カシムが呆然と見守る前で、ゆっくりと、自分のフードに手をかけた。
布地が、指に触れる。これを脱げば、もう後戻りはできない。
それでも、俺は進むしかなかった。
そして、フードを脱いだ。
部屋の窓から差し込む光が、俺の緑色の肌を、容赦なく照らし出していた。
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