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人間になりたいゴブリン ~一冊の魔導書を拾った日から、運命は変わり始めた~  作者: ストパー野郎
第五部:新たな師匠と姉弟子、そしてときどき相棒
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第42話:宮廷の波紋

 王宮での最初の夜、俺は全く眠れなかった。


 隣のベッドでは、カシムも同じらしかった。シーツの擦れる音が、やけに大きく部屋に響く。俺が寝床にしていた洞窟の、湿った土の匂いが恋しい。


 エリアス先生の塔の、インクと古い紙の匂いですら、今となっては安らぎの記憶だ。ここは違う。高価な香油と、冷たい大理石の匂いしかしない。まるで、綺麗な墓石の中で眠っているかのようだった。


『……帰りたい』


 豪華すぎて落ち着かない部屋の中、俺たちはただ、天井に描かれた見たこともない精密な星図を、闇の中で見つめていた。


 本物の星空とは違う、決して動くことのない完璧な星々。それが、今の俺たちの状況そのもののように思えた。


 翌朝、夜明けと共に、ヴァレリウス様が音もなく部屋に現れた。


「来なさい」

 その一言だけで、俺たちの体は意思とは無関係に動き出す。


 俺はフードを深く被り、カシムはベッドから転げ落ちるように起き上がると、慌ててローブの皺を伸ばした。


 俺たちが連れていかれた先は、王立魔術師ギルドの大食堂だった。

 磨き上げられた廊下を歩く。すれ違う召使いたちは俺の姿を認めると、怯えたように目を伏せて壁際に寄り、衛兵たちは侮蔑の視線を隠そうともしない。その全てが、無数の針となって俺に突き刺さった。


『……うわぁ』

 食堂に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず心の中で声を上げた。


 高い天井、魔力で淡く光るシャンデリア、シミ一つない純白のクロス。テーブルの上には、俺が一生かかっても稼げないような銀の食器が、寸分の狂いもなく並べられている。


 鼻をつくのは、焼きたてのパンの甘い香りと、嗅いだことのない肉料理の匂い。そこにいるのは、皆、いかにも育ちが良さそうなエリート魔術師ばかりだ。


 その完璧な空間に、俺たちが足を踏み入れた瞬間、全ての会話と、全ての食器の音が、ぴたりと止んだ。

 全ての視線が、刃物のように俺たち三人に突き刺さる。


 ヴァレリウス様は、そんな視線を全く意に介さない。

 彼は、空いている席へと、当然のように向かっていく。俺とカシムは、彼の後ろに、石のように固まって立つしかなかった。


 その時だった。

 一人の女が、すっと椅子から立ち上がった。


『……綺麗だ』

 それが、俺の最初の感想だった。


 体に吸い付くように仕立てられた完璧なローブ。白銀の装飾が施された杖。そして何より、その瞳。氷のように冷たく、絶対的な自信と、揺るぎない誇りの光を宿していた。


「お待ちください、師よ」

 鈴が鳴るような声。だが、その響きには鋼の硬さが混じっていた。


 カシムが、俺の隣で「セラフィナ様だ……」と、畏怖に満ちた声で呟いた。ヴァレリウスの一番弟子にして、ギルドの天才。


 セラフィナは、俺とカシムのことなど存在しないかのように、ヴァレリウス様だけを見つめていた。


「その者たちを、この神聖な場所へ入れるおつもりですか」

 ヴァレリウス様は、足を止めると、ゆっくりと振り返った。


 そして、食堂の全員に聞こえるように、はっきりと告げた。


「彼は、ゴブリンだ。そして、言葉を解し魔法を使う、実に興味深い研究対象だ。……そう、私の新しい弟子だよ」

 その一言が、爆弾のように、食堂の静寂を破壊した。

 一瞬の沈黙。そして、次の瞬間、魔術師たちの間から、抑えきれない混乱の声が沸き上がった。


「ゴブリンだと…!?」


「研究対象を…弟子に…? ヴァレリウス様は、ご乱心か!?」


「言葉を解すゴブリンなど、ありえん! 何かの幻術だ!」

 一人が思わず立ち上がった拍子に、椅子が床に倒れて甲高い音を立てる。


 杖を握りしめ、明確な敵意を俺に向ける者もいた。カシムは、顔を真っ青にして、今にも気を失いそうだった。


 だが、その全ての混乱を、セラフィナの、震える声が切り裂いた。


「……師よ」

 彼女の顔から、血の気が引いていた。


「今、なんとおっしゃいましたか……? 弟子…? この、害獣を…研究対象として…?」


 彼女の完璧な世界が、音を立てて崩れていくのが見えた。


 敬愛する師が、ゴブリンを弟子として側に置くと宣言した。それは、彼女の誇りと、師弟という関係性の全てを、否定するに等しい最大の侮辱だった。


「道理に反します!」

 セラフィナの声が、ついに怒りに変わる。


「あれは、村を襲い、畑を荒らすだけの、駆除されるべき存在! 知性も持たぬ獣! それを弄び、弟子と呼ぶなど、ギルドの、いえ、人類の魔法史における最大の汚点となります!」

 ヴァレリウス様は、何も答えなかった。


 ただ、氷のような目で、セラフィナと、その場にいる全ての魔術師たちを見渡す。 

 その無言の視線が、全てを黙らせた。誰もが、次に何が起こるのか、固唾を飲んで見守っていた。


 食堂の真ん中で、四方から突き刺さる憎悪と混乱の視線を浴びる。

 セラフィナの言葉が、耳の奥で繰り返された。『駆除されるべき存在』『知性も持たぬ獣』。


 その、張り詰めた静寂を、俺が破った。

 フードの奥で、乾いた唇が、わずかに動く。


「……俺は……獣じゃない」

 セラフィナの、怒りに燃えていた瞳が、信じられないものを見るかのように、見開かれた。


 誰かが、銀のフォークを床に落とす。カシャン、と甲高い音が、死んだような静寂の中に響き渡った。


 食堂にいた全ての魔術師が、息を呑み、凍りつく。

 物言わぬはずの害獣が、喋った。

 その、ありえない事実だけが、衝撃となって、その場を支配した。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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