第42話:宮廷の波紋
王宮での最初の夜、俺は全く眠れなかった。
隣のベッドでは、カシムも同じらしかった。シーツの擦れる音が、やけに大きく部屋に響く。俺が寝床にしていた洞窟の、湿った土の匂いが恋しい。
エリアス先生の塔の、インクと古い紙の匂いですら、今となっては安らぎの記憶だ。ここは違う。高価な香油と、冷たい大理石の匂いしかしない。まるで、綺麗な墓石の中で眠っているかのようだった。
『……帰りたい』
豪華すぎて落ち着かない部屋の中、俺たちはただ、天井に描かれた見たこともない精密な星図を、闇の中で見つめていた。
本物の星空とは違う、決して動くことのない完璧な星々。それが、今の俺たちの状況そのもののように思えた。
翌朝、夜明けと共に、ヴァレリウス様が音もなく部屋に現れた。
「来なさい」
その一言だけで、俺たちの体は意思とは無関係に動き出す。
俺はフードを深く被り、カシムはベッドから転げ落ちるように起き上がると、慌ててローブの皺を伸ばした。
俺たちが連れていかれた先は、王立魔術師ギルドの大食堂だった。
磨き上げられた廊下を歩く。すれ違う召使いたちは俺の姿を認めると、怯えたように目を伏せて壁際に寄り、衛兵たちは侮蔑の視線を隠そうともしない。その全てが、無数の針となって俺に突き刺さった。
『……うわぁ』
食堂に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず心の中で声を上げた。
高い天井、魔力で淡く光るシャンデリア、シミ一つない純白のクロス。テーブルの上には、俺が一生かかっても稼げないような銀の食器が、寸分の狂いもなく並べられている。
鼻をつくのは、焼きたてのパンの甘い香りと、嗅いだことのない肉料理の匂い。そこにいるのは、皆、いかにも育ちが良さそうなエリート魔術師ばかりだ。
その完璧な空間に、俺たちが足を踏み入れた瞬間、全ての会話と、全ての食器の音が、ぴたりと止んだ。
全ての視線が、刃物のように俺たち三人に突き刺さる。
ヴァレリウス様は、そんな視線を全く意に介さない。
彼は、空いている席へと、当然のように向かっていく。俺とカシムは、彼の後ろに、石のように固まって立つしかなかった。
その時だった。
一人の女が、すっと椅子から立ち上がった。
『……綺麗だ』
それが、俺の最初の感想だった。
体に吸い付くように仕立てられた完璧なローブ。白銀の装飾が施された杖。そして何より、その瞳。氷のように冷たく、絶対的な自信と、揺るぎない誇りの光を宿していた。
「お待ちください、師よ」
鈴が鳴るような声。だが、その響きには鋼の硬さが混じっていた。
カシムが、俺の隣で「セラフィナ様だ……」と、畏怖に満ちた声で呟いた。ヴァレリウスの一番弟子にして、ギルドの天才。
セラフィナは、俺とカシムのことなど存在しないかのように、ヴァレリウス様だけを見つめていた。
「その者たちを、この神聖な場所へ入れるおつもりですか」
ヴァレリウス様は、足を止めると、ゆっくりと振り返った。
そして、食堂の全員に聞こえるように、はっきりと告げた。
「彼は、ゴブリンだ。そして、言葉を解し魔法を使う、実に興味深い研究対象だ。……そう、私の新しい弟子だよ」
その一言が、爆弾のように、食堂の静寂を破壊した。
一瞬の沈黙。そして、次の瞬間、魔術師たちの間から、抑えきれない混乱の声が沸き上がった。
「ゴブリンだと…!?」
「研究対象を…弟子に…? ヴァレリウス様は、ご乱心か!?」
「言葉を解すゴブリンなど、ありえん! 何かの幻術だ!」
一人が思わず立ち上がった拍子に、椅子が床に倒れて甲高い音を立てる。
杖を握りしめ、明確な敵意を俺に向ける者もいた。カシムは、顔を真っ青にして、今にも気を失いそうだった。
だが、その全ての混乱を、セラフィナの、震える声が切り裂いた。
「……師よ」
彼女の顔から、血の気が引いていた。
「今、なんとおっしゃいましたか……? 弟子…? この、害獣を…研究対象として…?」
彼女の完璧な世界が、音を立てて崩れていくのが見えた。
敬愛する師が、ゴブリンを弟子として側に置くと宣言した。それは、彼女の誇りと、師弟という関係性の全てを、否定するに等しい最大の侮辱だった。
「道理に反します!」
セラフィナの声が、ついに怒りに変わる。
「あれは、村を襲い、畑を荒らすだけの、駆除されるべき存在! 知性も持たぬ獣! それを弄び、弟子と呼ぶなど、ギルドの、いえ、人類の魔法史における最大の汚点となります!」
ヴァレリウス様は、何も答えなかった。
ただ、氷のような目で、セラフィナと、その場にいる全ての魔術師たちを見渡す。
その無言の視線が、全てを黙らせた。誰もが、次に何が起こるのか、固唾を飲んで見守っていた。
食堂の真ん中で、四方から突き刺さる憎悪と混乱の視線を浴びる。
セラフィナの言葉が、耳の奥で繰り返された。『駆除されるべき存在』『知性も持たぬ獣』。
その、張り詰めた静寂を、俺が破った。
フードの奥で、乾いた唇が、わずかに動く。
「……俺は……獣じゃない」
セラフィナの、怒りに燃えていた瞳が、信じられないものを見るかのように、見開かれた。
誰かが、銀のフォークを床に落とす。カシャン、と甲高い音が、死んだような静寂の中に響き渡った。
食堂にいた全ての魔術師が、息を呑み、凍りつく。
物言わぬはずの害獣が、喋った。
その、ありえない事実だけが、衝撃となって、その場を支配した。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




