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人間になりたいゴブリン ~一冊の魔導書を拾った日から、運命は変わり始めた~  作者: ストパー野郎
第五部:新たな師匠と姉弟子、そしてときどき相棒
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第41話:賢者の手紙

 

 俺の運命は、もう俺のものではなくなった。

 伝説の魔術師が、その手綱を握る。

 俺は、その事実をただ受け入れる。それ以外に道はない。


 ヴァレリウス様は、近衛魔術師たちに手早く指示を出すと、俺と、まだ床にへたり込むカシムに目を向けた。

 その瞳に感情は映らない。道端の石ころへ注がれる視線と同じ。


「君たちは、私と来なさい」

 静かな声が、俺の体を縛る。


 俺たちの体は、意思とは別に動き始めた。

 罪人のように、屈強な近衛魔術師が両脇を固めて進む。王宮のどこまでも続く廊下を、俺たちは歩かされた。

 床の大理石は雲の上を歩くよう。壁に並ぶ肖像画が、俺たちの愚かな姿を見下ろしていた。


 やがて、巨大な扉の前で足が止まる。

 ヴァレリウス様が扉に軽く触れる。音もなく、内側へ開く扉。

 そこが、彼の執務室だった。


『……すごい』

 俺は、息を呑む。


 エリアス先生の書斎は、混沌とした知識の海。ここは違う。何もかもが正反対の世界だ。


 部屋は円形。壁一面が天井まで続く書架で埋め尽くされている。そこに乱雑さはない。革張りの書物が、背表紙の色と大きさで分けられ、一分の隙もなく書架に収まっていた。


 磨き上げられた黒曜石の床が、俺の汚れたローブと、恐怖に引きつるカシムの顔を映し出す。

 部屋の中央で、星々が動く巨大な天球儀が回っていた。


 その奥に、黒檀の巨大な机が一つ。

 この完璧な空間で、俺たち二人の存在だけが、醜い染みとなって浮いていた。


「そこに」

 ヴァレリウス様は、壁際の硬い椅子を顎で示す。

 俺とカシムは操り人形のように椅子へ向かい、腰を下ろした。


 ヴァレリウス様は、俺たちを忘れたかのように机に向かう。エリアス先生の手紙の封を、細い指が丁寧に、ゆっくりと解いていった。


 紙の擦れる乾いた音だけが、部屋の静寂をかき乱す。

 やがて、彼は一枚の羊皮紙を広げた。その内容を、感情を乗せない平坦な声で読み上げる。

 神の宣告が、俺たちの運命を決めていく。


「『拝啓、我が忌々しい宿敵、ヴァレリウス殿。息災かね。相変わらず、その完璧主義で、息の詰まるような世界を、楽しんでおるかね』」

 ヴァレリウス様の口から、エリアス先生らしい喧嘩腰の言葉が紡がれる。

 カシムが隣で息を呑む音がした。


「『さて、本題だ。お前に、一つ、面白い玩具を送ることにした。我が、最初で最後の弟子だ。名を、ゴブスケという』」

 ヴァレリウス様の温度のない瞳が、俺を貫く。

 俺はその視線に射抜かれ、石のように固まった。


「『……ああ、言い忘れておった。こいつは、ゴブリンだ』」

 ヴァレリウス様は、その一文を読むと、ふっと息を漏らして笑った。


 驚きの笑いではない。倉庫で俺の正体を見抜いた彼にとって、それは事実確認に過ぎない。

 彼の笑いは、もっと深い愉悦に満ちていた。長年の宿敵が、ようやく自分を愉しませるに足る、奇妙な一手を打ってきたことへの満足の笑みだ。


「……なるほどな」

 彼は、チェスの盤面を眺めるように、手紙と俺の顔を交互に見比べた。


「『ゴブリン』を送り込むこと自体が、あの老人の、私に対する挑戦状というわけか」

 彼は、羊皮紙の続きに目を落とす。


「『お前の、その完璧で、退屈な世界を、この、矛盾に満ちた存在で、思う存分、かき乱してみせよう。こいつを殺すもよし。生かすもよし。どう調理するかは、お前の好きにしろ。……せいぜい、楽しませてもらうとしようか。敬具、エリアス』」


 手紙の本文は、そこで終わる。

 俺は、ただ呆然とした。

 弟子。玩具。矛盾した存在。


 エリアス先生にとって、俺はそういうものだったのか。

 この壮大で悪趣味な、二人の天才のゲーム盤に送り込まれた、駒。


「……まだ続きがあるな」

 ヴァレリウス様が呟き、追伸を読み上げた。


「『追伸: もしこの玩具が気に入ったのなら、お前の得意とする、あの胡散臭い変身魔法でもくれてやるがいい。この出来損ないは、本気で『人間』になりたいと願っておる、滑稽なゴブリンなのでな』」

 俺は、自分の耳を疑う。


 俺の、たった一つの、誰にも明かさなかった願い。

 エリアス先生は、それすらも、この男への手紙に書き記した。

 カシムが、信じられないものを見る目で、俺の顔とヴァレリウス様を交互に見つめている。


 ヴァレリウス様は手紙をゆっくり折り畳むと、机の引き出しにしまった。

 そして、指を組み、その目に愉悦の色を浮かべた。俺たちを見つめる。


「……なるほど。あの老いぼれが、考えそうなことだ」

 彼の声には怒りではなく、好敵手からの挑戦状を受け取ったチェス名人のような、静かな興奮が滲む。


「面白い。実に、面白いではないか」

 彼はゆっくり立ち上がり、俺たちの前に立った。


「エリアスの『問い』は、受け取った。ならば、私にも、それに答える義務があるだろう」

 彼の視線が、まず、震えの止まらないカシムを捉える。


「三流魔術師カシム。君は、このゴブリンを王都へ導いた。功績は認めよう。だが、君の野心と愚かさは、危うく君自身を滅ぼすところだったな」

 そして、彼の底の知れない瞳が、俺をまっすぐに見据えた。


「そして、ゴブスケ。君は、ゴブリンでありながら、魔法を操り、人間の言葉を解す。エリアスが言う通り、矛盾の塊だ。……そして、私の完璧な世界に投げ込まれた、予測不能な変数」

 ヴァレリウス様は、窓の外に広がる完璧な王都の景色を一瞥した。


「よろしい。――この、危険なゲーム、乗ってやろう」

 その言葉が、俺たちの新しい運命の始まりを告げる。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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