第40話:仮面の奥
「やれ。二人とも、港の魚にくれてやれ」
サイラスの、冷たい命令が響き渡る。
チンピラたちが、下品な笑みを浮かべ、俺たちへと、じりじりと距離を詰めてくる。
絶体絶命。
俺は杖を構え、カシムはその背中を守るように隣に立った。
もはや、これまでか。
そう覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
一つの影が、動いた。
それは、これまでヘリオの背後に、影のように控えていた、彼の部下であるはずの、無口で、印象の薄い男だった。
その男は、チンピラたちと、俺たちの間に、まるで風のように滑り込んだ。
「どけ、貴様!」
一番近くにいたチンピラが、邪魔者を排除しようと、棍棒を振り上げる。
だが、その腕は、振り下ろされることはなかった。
男の手が、残像を残すほどの速さで動き、チンピラの腕を掴む。
ゴキリ。
骨が、ありえない角度に折れ曲がる、鈍い音が響いた。
悲鳴を上げる暇もなかった。
男は、そのまま、チンピラの体を盾にするようにして、他の男たちへと突進する。
一瞬の交錯。
二人目の男が、自分のナイフを喉元に突きつけられたまま、硬直する。
三人目の男が、腹に強烈な一撃を食らい、壁まで吹き飛んだ。
それは、戦いですらなかった。ただの一方的な、制圧。
人間とは思えぬ、精密で、無駄のない動き。
倉庫の中が、驚愕と、混乱に満ちた静寂に包まれる。
サイラスも、ヘリオも、そして、俺とカシムも、目の前で起きたことが、信じられなかった。
「……き、貴様……一体、何者だ……!?」
ヘリオが、震える声で、その腹心であったはずの男に尋ねた。
男は、ゆっくりと、ヘリオの方へ向き直る。
そして、その姿が、陽炎のように、ゆらりと揺らめき始めた。
猫背だった背が、すっと伸びる。
みすぼらしかった平民の服が、その生地の色と形を変え、寸分の狂いもなく仕立てられた、完璧な宮廷魔術師のローブへと、滑らかに変貌していく。
平凡だったその顔の輪郭が、まるで柔らかな粘土のように、再構成されていく。
そして、現れたのは。
優雅で冷徹で、そして、圧倒的なまでの存在感を放つ、宮廷魔術師長ヴァレリウス、その本人だった。
「……ヴァ、ヴァレリウス……!?」
ヘリオの顔が、絶望に染まる。
ヴァレリウスは、心底、失望したという顔で、首を横に振った。
「ヘリオ。君の、翠蛇組合との癒着と、王宮物品の横流しは、調査させていた。そして、異物たちの出現という『大きな動き』を察知し、君がここへ向かう直前、君の部下を捕らえ、私が成り代わった。……君の愚かさは、私の想像を、少しだけ、超えていたようだ」
「ひぃ……!」
「君の反逆は、ここまでだ」
ヴァレリウスが指を鳴らした、その時。
倉庫の巨大な扉が、凄まじい魔力によって、内側から吹き飛んだ。
そこには、完全武装した、近衛魔術師の一団が、雪崩れ込むように突入してきた。
彼らは、あっという間に、残ったチンピラと、呆然と立ち尽くすサイラス、そして、腰を抜かしたヘリオを、捕縛していく。
嵐のような、数分間。
俺とカシムは、ただ、その光景を、呆然と見つめていた。
全ての処理が終わった後、ヴァレリウスは、床に転がっていた、エリアス先生の手紙に、目を留めた。
手紙は、魔法の力で、ふわりと宙に浮き、彼の元へと、吸い寄せられる。
その、手紙が動いた際に発生した魔力の風が、俺の纏う、古いローブのフードを、激しく、後ろへと吹き飛ばした。
あっ、と思う間もなく、フードと、顔に巻いていたスカーフが、剥がれ落ちる。
ランタンの光の下に、俺の、本当の顔が晒された。
緑色の肌。尖った耳。大きく、そして恐怖に見開かれた、丸眼鏡の奥の瞳。
「――ゴブリン!?」
近衛魔術師の一人が、驚愕の声を上げ、反射的に、俺へと杖を向けた。
他の魔術師たちも、一斉に、臨戦態勢に入る。
カシムが、慌てて俺の前に立ちはだかった。
「ま、待て! こいつは、その……!」
「――静かに」
ヴァレリウスの、たった一言。
その絶対的な響きを持つ声に、近衛魔術師たちは、ぴたりと動きを止めた。
ヴァレリウスは、俺を見ていた。
その視線は、俺を「ゴブリン」として、見てはいなかった。
驚きでも、侮蔑でもない。
まるで、長年解けなかった、極めて難解な数式の、最後のピースが、予期せぬ形で、目の前に現れたかのような。
純粋な、そして、どこか愉悦に満ちた、探究者の目をしていた。
彼は、手の中のエリアスの手紙と、俺の顔を、ゆっくりと見比べる。
そして、全ての謎が解けたというかのように、面白そうに、そして、どこか危険な光を目に宿して、静かに微笑んだ。
「……なるほど。エリアスが、私に送り込んできた『問い』の正体は、君だったというわけか」
絶体絶命の窮地は、去った。
だが、俺は、もっと底の知れない、巨大な何かの前に、独り立たされているような気がした。
俺たちの運命が、完全にこの伝説の魔術師の手に、委ねられたのだ。
そのことを、俺は、ただ理解するしかなかった。
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